水海道中学校の創立

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明治三三年(一九〇〇)は、茨城県の中等教育機関が大きく整備された年であった。従来、水戸にあった茨城県尋常中学の本校、及び土浦、下妻の同校分校は、それぞれ水戸中学、土浦中学、下妻中学として独立したからである。そして同時に、水戸中学には太田分校、土浦中学には竜ケ崎分校、下妻中学には水海道分校がそれぞれ設けられた。
 水海道分校は同年四月、報国寺本堂を仮教室に、教諭六名と書記一名で出発し、入学試験の結果入学を許可された一二〇名の生徒をもって開校した。
 同年、水海道町では、中学校に敷地を「献納」したが、この経費(土地代と家屋取扱い代)一八九九円余は臨時費として計上され、町では公債一七〇〇円を起債している。同町の年間経常費総額が五〇七九円余であったことから見ても、相当の負担となったことが想像出来る。しかも入学生徒は近隣町村は勿論、遠方からも通学してきた。それにも拘らずこうした多額の町費を投じた意味は、勿論設置に尽力した県会議員渡辺武助(華洲)、同秋場庸を始め町側の条件ではあったが、他の設置町と肩を並べてこうした中学を置くことが町の名誉であり、将来は必ず町の発展に寄与する所が少なくないとしてのことであったろう。
 

旧制水海道中学校

 当初の仮校舎はすぐに狭くなり、また報国寺仮校舎のままでは問題も多く、新校舎の建築にとりかかった。しかし、明治三五年秋の暴風雨で建設途上で破壊され、実際に新校舎に移れたのは、翌三六年四月からである。
 初代校長は、「英国の教育法に独逸教育法を加味して、個性の発揮と自我の自覚とに力め、而して規律ある厳格なる教育を施し、之れを一貫する教員の人格を以てせん」とした鶴見次昌であった。彼は生徒奨学費貸与制度をつくることを希望し(実現出来ず)、寄宿舎の完備(明治三六年)、創立記念日等の機会を利用し地方有志や先輩を招待するなど、積極的に人格教育をおしすすめた。このほか教頭の浜田作次郎(数学)、安藤誠(国漢)、鮫島義丸(理化及数学)、小山鬼子三(英語)などの俊英が全国各地から集まった。
 しかし、入学した生徒の卒業率は低かった。「今でこそ、入学すれば卒業するのが当然ということになっているが、当時はむしろ卒業する方が少なかった。大正期に入ってさえ、『中学へ来て三年も教われば百姓はできる』というので、三年で退学する例が多かった位だから、当初はなおさらである……」と、いわれるように、一回から七回までの卒業生のうち、卒業生の比率が最も高い時で四五パーセント(第六回)で、三〇パーセント台が多かった。入学者約三人に一人の割でしか、卒業できなかったのである。卒業率が五〇パーセントを越えるのは、大正後期になってからである(『済美八十年記念誌』)。しかし当初の卒業者の進路は、進学が多く、とくに第一回では、旧制高校五人、東大農学部実科三人、水産講習所一、陸士一、千葉医専三人など多くの秀才を輩出している。また第一期にはのちの近衛内閣書記官長風見章(早大)がおり、開学時の潑剌とした雰囲気を今に感じさせる(同校第一回卒業生石塚峻の回顧録、『同記念誌』)。
 学校では授業のほか、「心身を鍛練し、情誼を厚くし、兼て善良なる校風を助長する」目的で創立の年の五月から「済美会」という、職員と生徒との合同による組織が、結成された。これは学芸、運動の二部門からなり、当初から撃剣部(剣道)、野球部、庭球部、フットボール部(サッカー)、柔道部、大正期に入ってから水泳部、徒歩部、弓道部が出来、学芸部門では、講演部、雑誌部、図書部などがあった。生徒の自主的機関としては創立当初から「自彊会」があり、在校生と卒業生の交流、親睦の場として、大正四年から「亀陵会」も組織された。