新時代の啓蒙家

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秋場桂園(権左衛門)が水海道の名主として、幕末から明治初期の激変多難な時期にあって、水海道地方の政治をリードしたことは随所で触れたところである。明治一〇年代に入って、息子庸が県会議員になるに及んで、桂園自身は政治の中心的な位置から退いたが、依然として地方子弟の教育や、小学校教師の研修に臨むなど、文化、教育の向上に努める所がきわめて大きかった。桂園及び彼の薫陶を受けた数多くの人びとについては、水海道の生んだ歴史家富村登が終始一貫追求してやまなかったが、彼らこそ「常総文化」と、その担い手たちであった。
 富村は著書『絹江詩史』の中で、桂園についてつぎの手短かな紹介文を草している。
 
   人の知る通り桂園は地方文化の恩人である……三十余年も名主として勤続した上に広く天下文雅の士と交り、其貧しきものには米塩を供給してそれが大成を助け、後進を誘導しては彼等が名をなさしめた。後世全国的な大家として名を成したものの中、桂園の援助にあずかった者を挙ぐれば、川田剛、鷲津毅堂、信夫恕軒、山田三川、五弓士憲其他があり、大沼枕山、小野湖山、藤森天山等も亦遊歴途上に其庇護を受けた。郷土の後進で人に知られた小林蔵六、猪瀬東寧、秋葉猗堂、渡辺華洲、宮本蘋香、五木田松濤、松田秀軒等は悉く桂園門下の逸材である。……
 
 明治一〇年代の自由民権運動期に、各地に政談演説会が開かれたが、秋場桂園は教育に関する演説会の開催を主張して、毎月これを催すという計画をたてたほど熱心だった。こうした活気のみなぎる中で県下に冠たる水海道小学校が建設されたのであり、町民の熱意が象徴的に反映された存在になっていった。
 明治二五年に桂園は、八〇歳を数多くの門弟に祝賀されたが、この頃になると、体も衰え、旅行や作詩(俳句)など以前にくらべようやく減少する。しかし翌明治二六年、彼の門弟の中から、小林林塘(小林秀三郎)、渡辺華洲(武助)らを中心とする二十余人が集まって、「絹水吟社」という一社を組織した。「毎月一次相会し、講習唱和して其詩衰然堆を成す。頃(ちかご)ろ諸子相謀って曰く宜しく之を抜萃整理し、毎年一冊と為し以て同好に頒たんと」と、その目的を掲げた。そのメンバーとはつぎの人びとである。
 小林秀三郎、関米吉、小口貞吉、草間浦之助、斉藤麻之助、山中徳三郎、金子権造、中島清、安島安、岩本虎信、吉原五郎平、鈴木五郎、中島国太郎、慶野荘作、松本幹一郎、吉田和助、長塚蔵吉、奥谷福之助、塚田柳斉、倉持国之助、赤松格、鈴木喜三郎、渡辺武助。絹水吟社に結集したこれら主な人びとは、遠くは筑波郡や真壁郡の有力者、政治家などもおり、多くが桂園門下生であった。中でも数多くの小学校教員が加わっており、新しい時代の指導者の多くが、桂園と深いつながりがあったことは注目される。近世から明治に移る時期は、一方で欧米流の近代文学、近代科学が発展し、地方にも次第に流入したが、この時期は未だ儒教的精神に裏づけられた、近世的な文芸である俳句や狂歌、漢詩などが、多くのインテリや指導者の関心や文化意識をとらえていた。
 

絹水吟社集

 また、明治二七年頃から『舞鶴』と題した句集が毎月一回発行され、地方の俳諧熱を高める役割を果たした。また水海道俳壇として梅香社が結成され『さゝ浪』が発行された。俳句が次第に大衆文化として伸びていく様相をうかがい知ることができる。
 秋場桂園の門弟のひとり松田秀軒は、また水海道において、独特な地位を築いた指導者のひとりだった。民権運動の項でも見たが、東京に出て医学を学び帰郷後は漢籍なども学ぶ傍ら政談演説会を起こし、改進党系によった運動にも加わっている。しかしもとより医者であり高い教養を身につけた彼は、秀英社なる家塾を営み、文学を教え、『東洋文詩』という書物を出版した。のち町の学務委員などをつとめ、学校教育の発展に寄与する所が大であった。