水海道町の「商業種別表」(明治一七年)に二軒の書籍卸売商の存在が記されているが、これは当町の書肆として記録されている明文堂、新々堂のことである。教育や文化の発展とともにこうした営業も伸張し、また同時に地域文化の向上をも担う役割を果たしたのであった。
新々堂書店を起こしたのは増田為吉で、彼は町内の薬舗江戸屋で若き日をすごしていたが、やがて明治九年頃独立して書店を開業した。書店といっても時おり東京へ出掛けて安本をみつけては買いあつめ、風呂敷に詰めて帰り文明開化の息吹きを伝える珍しいものとして地方の人々に販売した。また東京で得た知人の依頼で農産物を運び、再び書籍にかえて帰郷するという日常であった(富村登『常総の名人奇人』)。小学校教育の普及する中で、啓蒙書が出まわるようになると、教材の取り扱いをはじめる一方で、為吉は東京から一人の印鑑職人を連れて帰り、ここで木版による出版を試みた。同家に残る多くの木版原版はこうして作成された初期の出版事業の遺品である。
明治二〇年後半から石版による雑誌の印刷部門を設け、五木田庄次郎が中心となり新々堂活版部として営業を開始し、ここでは『青年詞壇』や、『文洋』といった地方文芸雑誌の出版を行った。しかし、この活版部は明治四〇年代初め頃不振を来たし残念ながら廃業のやむなきに至った。
また、増田為吉は書店を経営しながら次第に町内の文化事業面の中心的役割を担うようになる。しかも資金調達や、諸会合、建碑事業等の裏方仕事に、いとわず精を出すなど貴重な存在として活躍した。
飯塚家の経営になる明文堂もほぼ新々堂と同じように、書籍販売や学校の教材等を取り扱い、木版による印刷事業も行った。