猪瀬東寧(天保九~明治四一)と秋葉猗堂(天保一三~明治四二)はともに、三坂新田町の猪瀬光容の第五子、第六子として生まれた。猪瀬家の先代豊城は荒川又五郎、稲葉儀右衛門とともに江連用水再興の立役者となって人望をあつめ、また儒者として下館藩や結城藩にも仕え、数多くの門弟を育てた高名な学者で、彼等兄弟はその孫にあたる。
東寧は一時結城郡の一名門家の養子となったが、故あって離縁して家に戻った。ここで彼は、人間には特別の才能がなければあれこれさまざまな事業に手を出しても容易にその志を達することが出来ないと気づく。そして自分は「寧ろ我が好む所の画を学ぶに如かず」と、一念発起して自分の好きな画の道に進むべく、誰にも告げずに村を出る。諸国を巡って京都に辿りついた彼は、姉小路公知卿に仕えながら当代の南画の巨匠であった日根対山の門に入り、三坂新田の家にもこの時点で連絡し、許される。
京都で五年間の本格的修業を積み、絵画の腕を磨いた彼は、祖父豊城が危篤であるむねの知らせを受け帰郷することになる。豊城の喪があけると彼は、年齢を理由に辞めた父光容の後をうけて、三坂新田四四五石余の旗本石谷将監の江戸邸に入り、ここで同家の財政整理にあたる。仕事の内容は明白になっていないが、評定所や町奉行所に出廷することが多く、三年の月日を要したというから、幕末期の混乱に伴う厄介な問題の処理だったと思われる。
明治時代になって東寧は晴れて画家として独立し、神田や御徒町に居を構え活躍を始めた。しかし三坂新田の兄が没したため一時郷里に戻って猪瀬家の経理にあたったこともあった。明治一一年には下谷仲徒町に落着き、以後創作活動を精力的に展開した。明治一四年には八曲屛風を第二回内国勧業博覧会に出品し、宮内省買上げになったのを始めとして、博覧会、共進会、展覧会で褒状賞牌を受けること二五回、官命を受けて山水画を描き、パリ万国博覧会出品鑑査会の採用になったもの二帖と、高い評価を受けた。明治三二年以降は日本美術協会審査委員となり、日本画の世界では第一人者ともいうべき地位にまでのぼった。
弟猗堂は飯沼村の秋葉源次郎の嗣子となり秋葉姓を名のった。同家は村役人として諸々の事務にたずさわっていたが、こうした中で彼は文武の業を身につけ成長する。幕末元治元年には幕府軍に加わり、県西から石岡辺での戦闘にも従事した。しかし不幸にも翌年眼病を患い失明してしまう。一時は失意のどん底に陥ったが、ここで彼は学問に励み、次第に周囲の認めるところとなり、思い切って家督を義弟に譲って単身上京する。猗堂は川田甕江に師事、困難な中で学問に精魂をかたむけた。偶々川田が新政府の修史局に入ったので彼に就き、繕写生となり次いで掌記に昇り、史制の纂輯に従事した。修史局はのち大学の編纂所に移ったが、猗堂もここにかわり、しばらく籍をおいた。猗堂は若い頃から句読や書道を学んでいたので同志とともに『回潤社』や『麗沢文社』という同人誌をつくりここでも活躍した。兄東寧が画家で文学には疎かったのでこれを輔けて、兄弟ともに切瑳琢磨し、文化の発展に大きく寄与した。