地租改正の着手

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下総国に属した水海道地方における地租改正事業は「壬申地券」の交付段階では印旛県の事業として着手され、ついで千葉県となった段階で地租改正条例が出され、地租改正の骨格が明らかとなった。これには土地の私有権を認め、その原則の上に、
 
 (一)地租を地価の百分の三とし、地価の決定は土地の収益を基礎に算定する、
 (二)豊凶による地租の増減は行わない、
 (三)将来物品税による国の歳入が二〇〇万円をこえた場合には地租を減少し、ゆくゆくは地価の百分の一に
   まで下げる、
 
 等々の内容がもり込まれていた。
 地租改正の推進役として各郡一、二名の地租改正総代などの選出が各地で行われ、事業への着手が図られた。まず地価の算定と丈量が課題となった。千葉県時代にあっては、上総、下総、安房三国のうち安房国の改租事業が全国の模範として取り組まれることとなり、明治七年一月頃まで約半年間、全力がここに集中された。しかし、不幸にも同年二月、千葉県庁舎が焼失し、中央政府の中止指令も出され、同県の改租事業は一頓挫を来すことになった。下総国地方においてはその後も一向に事業の進捗が見られないまま、明治八年五月、県域の変更により茨城県に編入になった。
 明治八年(一八七五)三月、内務、大蔵両省管轄になる地租改正事務局が設置され、同年八月の太政官布告一五四号では、明治九年末をもって一般地租改正の期限とするむねが達せられた。茨城県でも同年五月、県域の変更に照応するように「地租改正ニ付人民心得書」と「地価取調帳雛形」が布達された。
 明治九年三月「関八州地租改正着手ノ順序」が出され、第一条から一二条までの改正着手の順序が改めて示された。それには(一条)丈量を正確にし地盤を定むべし、(二条)土地の等級を定むべし、(三条)収穫を調査すべし、(四条)米価を定むべし、(五条)利率を定むべし、(六条)前の条件が全て正確なことを前提にして始めて地価を算出すべし、(七条)旧反米、石盛免等も収穫調査の一助とすべし、(八条)地価を算出するための収穫、利子、米価等の斟酌増減の行われることがあるがこの弊をつとめてなくすべし、等々の基本的な手順、観点がもり込まれていた。
 

地租改正調査員の辞令

 この時期県下各地の実地丈量→帳簿の作成が本格的に進み、その上に地位等級の決定が行われることになった。現在、市内高野町の岡野家には明治九年五月に作成された「私有田畑名細帳」なる書面が残されている。これは同家の岡野文左衛門名義の田畑の地番面積、形状などが書き込まれたものである。この帳面の末尾には「右之通取調候処相違無之候也」とした上、つぎの役職名、人名、捺印がある。
 
             地租改正係 書記 岡野文左衛門
   明治九年五月十二日       年齢四十年九ケ月
             地租改正係兼用係 荒井八十七郎
              同       風見力三郎
             地租改正係    鈴木松右衛門
 
 これによって同地の地租改正に臨んだ役職の一部を知ることが出来る。明治九年の五月頃、このように「実地丈量」の戸別書上げが集約され、一村全体の帳簿が完成し、つぎの地価算定作業に移って行ったものと思われる。