明治九年(一八七六)四月には、各小区に一名の「地主総代」が地主の選挙をもって選出された(県布達一三八号)。この地主総代は有給で「各村各部ノ等級」を正確に掌握し、地租改正事業全体を円滑にすすめるためとくに設けられたものである。この役職には結局、「調査精密地位収穫ヲ議定」し「各地ノ比準公平ナラシムルノ一助」としての役割が与えられ「官民ノ便宜」のためになくてはならない「要任」であるとされた。
ここで定められた地主総代は各小区に一名という少数のもので、県全体の方向性を決めるには重要であった。しかし同年七月「地位等級及び収穫地価調査順序」が出され、等級と同時に地価調査の手順が示された。これ以降、国―郡―区―村の順に等級決定を行うことになるが、町村の地位等級のため、同年十月新たに、各村ごとにおよそ一五町歩に一人の割で「地主総代」を選出することになる。
そして同時に各村における地位等級調査推進のため、「地位等級調査心得書」を定めた(県布達三一六号)。これは「各村毎地ノ等級区々ナカラシメン」ために、各小区のおよそ二〇か村を一組合とし、その組合の中に「模範村」を設定し、ここを具体的に調査の標準とすることをねらいとしたものであった。
この模範村として水海道地方では花島、箕輪、沖新田が指定され(岡田、豊田郡ではこの外、崎房、川尻、新堀、大房)、ほぼ翌年二月頃までに地位等級調査を終える。これ以降模範村を基準に模範地組合全体の等級決定にはいることになるが、そのために模範組合の中に「比較村」を設け、最上、最下の地位優劣を審議し、その上で組合内全体の等級割り振りを行うことになった。茨城県でも明治一〇年三月、県庁の地租改正掛の事務分掌を整理し、各郡の取扱掛官を決め、またこれが常駐する地租改正取調所が置かれた。結城豊田岡田郡においては、市川之恭と吉見季賢の二名があたり、取調所は石下と結城におかれた。
こうして各村の地位等級が決められ県に提出ののち、茨城県全体の審議を経て、各郡別の収穫や等級が確定され、再度村段階の調査が行われることになる。明治一〇年一〇月、地租改正事務局の会議で「各郡収穫」について審議され、「常総両国々郡位并平均上収穫目的表」がつくられた。これによれば豊田郡は田、畑いずれも一等で、田(米)の収穫高一石一斗四升九合、畑(麦)の収穫高一石八升五合であった。また岡田郡は田が八等(九斗七升四合)、畑が一一等(八斗八升五合)であった。この数字は翌年二月の会議においてもほぼ踏襲された。すなわち、豊田郡は田方(一石一斗九升五合)、畑方(一石六升一合)でともに一等、岡田郡は田方(九斗二升七合)が一二等、畑方(八斗八升三合)は八等であった。
このように地価算定は収穫調査を基準にして行われるものであったが、改正途中からさまざまな不満や不安が農民の間につのり、事業を早く完成させることが重要課題となった。このため旧幕時代の貢租額維持の線が絶対として中央政府から割りあてられ、これを如何に県下に賦課するかが地租改正の技術的問題として大きくクローズアップされることとなった。長い試行過程ののち、明治九年後半からの具体的作業は以上の内容を、如何に地域間の不満なく実施するかの問題に移っていった。