幕末から明治前期にかけて下総地方の農村では製茶業が著しく盛んとなった。中でも「猿島茶」の名を中央市場で高めるのに大きく貢献した岩井の中山元成の活躍や、猿島の野村佐平治、古河の丸山定之助らの名前は忘れることが出来ない。
中山元成が明治六年、印旛県令柴原和に提出した『茶園栽培地理略説』という著作物があるが(『茨城県史料=近代産業編I』)この中で彼は、葛飾郡北方並びに利根川より東北に位置する猿島、相馬、岡田、豊田、結城の諸郡と茶業との関係をつぎのように論じている。すなわち、この地方は比較的古くから製茶業が開けているため、茶の有利性を知っているが故に、逆に正しい製法によることを妨げる理由になっている。そして「詐偽ノ製法ヲ為シ自ラ巧ト思」っている所があり、これが「正製ノ手術ヲ上達シ大ニ新園ヲ拓キ増殖スル」ことを困難にしていると述べた。これら諸郡の地は「鬼怒大利根新利根三水ニ狭リ、野方ト唱ル地素ヨリ茶ニ適セザルハナ」く、さらに「相馬岡田ノ間僅ニ荒原アルモ其地極メテ広カラス土人一度憤発勉励スルトキハ其地形ニ随ヒ開拓以テ茶園ト成ス難カラス」と、現在の水海道市域の辺にも茶園開拓の望みが大いにあるとつけ加えていた。
農産物の項でもみたとおり岡田郡における製茶産額は多く、北相馬郡でもほぼ同様の傾向にあった。明治一〇年代における茨城県の勧業政策の中でも製茶業の奨励には力を入れた。そうしたものの一環として明治一七年三月、水海道駅において七郡(猿島、西葛飾、結城、岡田、豊田、真壁、北相馬)の製茶集談会が、また同年八月、下妻の第三中学(現下妻一高)を会場にして六郡(前記七郡から北相馬を除く)製茶共進会が開催された。これは八月一一日から二〇日までの一〇日間にわたって「地方製茶ノ精粗優劣ヲ品評シ専ラ改良進歩ヲ図ル」という目的で開催され、発起人として七八名が名前を連ねた。その中には、飯沼の飯田嘉兵衛、横曽根の飯田滝蔵、三坂の猪瀬嘉吉という名前もあげられている。これらが製茶業の中心的担い手であったことが想像出来る。
共進会、品評会、そして集談会というのが当時においてもっぱらとられた技術交換や学習の場であり、県の勧業課などがそれを仲介する役割を果した。右の六郡製茶共進会での出品審査長には県勧業課長高畠千畝が、審査員として日向、藤郷の係員があたった。そして審査補助員として中山元成(茶顚翁)、知久義之助とともに飯田滝蔵が選出された。