農事講習所と吉川栄吉

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明治一〇年代の半ば以降、県下各地にはほぼ郡を単位として、「農談会」と呼ばれる、農業技術の改良、普及を目的とした会合が開かれるようになった。中心になったのは県の勧業委員に任命されたような各地の篤農家、豪農であった。農談会には県の勧業課長や係官も臨席して米麦栽培法、種苗交換、虫害予防、肥料方法、農具等の問題について、どの会場でも熱気にあふれる議論が展開された(『茨城県史料=近代産業編I』)。
 明治二〇年頃から県に農事巡回教師、養蚕巡回教師が置かれ、彼らが中心となり各地で農談会が開かれるようになる。例えば水海道地方では明治二〇年八月に、豊田郡本石下村で「養蚕集談会」が、同年一一月には「農談会」が同じく本石下と岡田郡孫兵衛新田に開かれるという具合であった。
 明治二二年(一八八九)六月九日、豊田郡三妻村大字中妻の霊仙寺で開かれた農談会には三十余名が集まり、米作の改良、蚕業家の注意すべき要点が議題となった。さらに明治二四年に豊岡村報恩寺で開かれた農談会では「農事巡回教師織田又太郎ハ米作改良並ニ厩肥貯蔵法ニ就キ細密ナル講演ヲナセリ此日来聴セシモノ凡二百有余名アリ」という状況が報告されている(『同前近代産業編I』)。
 農事巡回教師設置後は農談会と並んで農事講習所という県営の機関が毎年各地に講習生を募集し、一定期間設置された。明治二二年四月から五月にかけて結城郡上山川村矢畑の広江嘉平館に開かれた七郡連合農事講習所には三二名の講習生が入所した。ここでは、蚕桑に関する学理と蚕児飼育法の実習が行われ、講師は前述した農事巡回教師織田又太郎と大波藤兵衛の二人であった。
 ここに参加した豊田郡中妻村の吉川栄吉は同年一月猿島郡境町で開かれた農事講習所にも入所して、学科において秀れた成績を残し学科目の試験は免除で、実習のみ評価を受けたがこれも一〇〇点満点であった。ここで栄吉は織田又太郎に認められる所となり、以後織田の「心得」となり、県下に開催される農事講習所には彼に随行した。
 明治二五年二月、谷田部町郡役所内で開かれた農事講習所にも織田とともに吉川栄吉が来所した。参加した講習生四五名の中には三妻村から落合源一郎、小林為吉、倉持国之介、森亀三郎、中沢幸之介、宮島喜助、五箇村から斉藤伊勢松、山田栄三郎、福田与三郎、大生村から山口豊作、渡辺三永、豊岡村から小林菊松、大花羽村から石塚甚作らの名前がみえる。
 吉川栄吉は県に簡易農学校が設置されるとこの教師となり、のち結城農学校の開設にあたってはその校長として赴任している。さきの農事講習所の講習生のみならず、結城農学校長としても、吉川栄吉は自らの出身地及びその周辺に大きな影響を与えた。