養蚕業は明治初期から、日本の重要輸出品としての生糸の原料生産部門として政策的に重視されてきた。茨城県における明治一〇年代の勧業政策の中でもその普及、奨励にはとりわけ力点がおかれ、県の養蚕巡回教師が各地に出張し、技術指導を行い、開催された農事講習所においても、養蚕業の技術伝授にかなりのウェイトがおかれた。
明治前期におけるその普及状況については、「菅生村是」につぎのように述べられている。
蚕業ハ明治十年第九大区一小区長浜野清一郎初メテ養蚕ノ有益ナルヲ聞キ附近ニ勧メテ飼育セシメタリ
ト雖僅少ニシテ他ニ販出スルニ至ラズ数字ヲ以テ其生産額ヲ示スヲ得ズ、明治二十年頃ヨリ漸ク増加シ
二十五年ヨリ生繭ノ販出モ激増セリ、養蚕家中十枚以上ヲ掃立ツル者二三アリタリ然レドモ一擢(かく)
千金ヲ夢想シ投機的ノ流行トナリ一般農家ハ養蚕ヲ危険トスルモノアリ……
この資料のいうとおり、養蚕業は当初から村内有力者によって試みられ、次第に周辺に広まっていったが、単純に増加の一途を辿ったという訳ではなかった。とくに繭価の変動や蚕病などによって、打撃を受けることがあり、投機的経営を試みて失敗する者もあり、農家経営の中で「副業」として安定的な位置を占めるようになるのは明治後期になってからである。
つぎにみる各村の「村是」に示された養蚕関係の数字から、当地方における明治末期の養蚕業の状況をみておきたい。大花羽村では現住戸数二九三戸に対して、春蚕を飼育する農家は一六〇戸であり、村内五〇パーセント以上が養蚕業に従事していた。春蚕の収繭高は三〇七五貫余で、玉繭、屑繭等も含めると金額で一万一六三三円余の収入があった。秋蚕も含めると同村における年間養蚕収入は一万七四九二円余で、これは普通農産物生産価額五万九九一九円につぎ、同村における養蚕収入の位置が知られる。
一方菅生村の例をみると、総数で五八七戸あったのに対し、春蚕飼育戸数は六八戸と、約一割余に過ぎなかった。秋蚕も含む同村の繭総産額は三四六〇円である。菅生村では特用農産物としての葉煙草の総価額が一万八五六六円を数え、これは養蚕とは両立出来なかった。また、同村では、商品作物として製茶の産額が九三〇〇円もあり、葉煙草や製茶に比して、菅生村では養蚕業があまり普及しなかったことを示している。
豊岡村をみると、総戸数五七九戸に対し、春蚕飼育戸数は二七五戸で半数には達していない。しかし春蚕の収繭高は四八〇六貫で、夏蚕、秋蚕を加えた総収繭高は七七四四貫、価額にして二万三四八四円である。これは同村における全生産価額一四万四三一七円の一六・二七パーセントに当たり、養蚕業の位置の高さを知ることが出来る。
しかし明治末期においても当地方の養蚕業をめぐる環境には厳しい問題が多かった。そのうち蚕種についてはその購入方法、貯蔵法が問題としてあげられた。蚕種は長野県産が最も多く、茨城産がこれに次ぎ、群馬、栃木産の場合もあったが、これは少なかった。共同購入ではなく各自が仲買商人或いは直接製造業者より買入れたから、不良品に悩まされることも少なくなかった。蚕種の貯蔵器などはほとんど持っている者はなく、ただ箱に入れておくか簞笥などに入れておくだけのものが一般的であった。
稚蚕共同飼育が明治末期になってようやく普及し、明治四〇年に豊岡村の飯沼と報恩寺の二地区に各一か所の飼育組合が作られた。大花羽村では羽生地区の一部に一か所設けられた。これにより稚蚕段階での失敗が減少することになった。
成繭の販売は時期になると、長野県の製糸家が水海道やその他に出張所を設けたので、ここで直接引き渡すか、或いは仲買人に売り渡した。乾燥器などはないからもちろん生繭で売るのが通例であった。
各村の状況でも見たとおり春蚕を除くと、まだ夏蚕、秋蚕の飼育を行う者は少なく、繭産額を上げるためにはこの夏、秋蚕の導入が図られる必要があった。とくに秋蚕は次第に多くなったがこれには桑葉の確保が前提となっていた。
「豊岡村是」は蚕業改良として、
イ 蚕業の経営を安定化すること、
ロ 蚕種の統一、
ハ 桑園の改良、
ニ 蚕業組合の設置、
ホ 屑繭整理、
の五項目を掲げた。とくに蚕業経営の点では、「自家ノ人夫、桑園ノ多少ニ応シ適度ニ飼養スルヲ可トス」と、最初に述べた投機的経営を排し、「副業」的に営むことを最も重視した。