水海道の郷土史家、故富村登にとって、「近世水海道を富ましめた条件とは何か」ということは、幾多の著書の中で、常にその問題関心の中心に座っていた。それというのも、近代茨城において存在した他の都市部に比較して、その歴史的発生過程を尋ねた時、城下町あるいは一時的にせよ藩屛の置かれるといった権力的条件による都市発展の契機がなく、純粋に経済的条件だけで都市的発展を見せた県内唯一の土地だったといっても言い過ぎではないからであった。
その問題に対し、富村はほぼつぎのような回答を与えている。すなわち近世初期、代官伊奈氏が行った鬼怒、小貝二川の切り離し、鬼怒川を開削して利根川に直結した大工事によって、大きくはつぎの二つのことがもたらされた。一つは水害の常襲地帯であった小貝川よりの谷原が水害から解放され、谷原三万石といわれる美田となって生まれ変わったことであり、もう一つは鬼怒川開削が、江戸と北関東、東北の内陸地を結ぶ水運の発展をもたらし、水海道は鬼怒川水運の一大要衝の地になったことである。これら歴史的、地理的な条件とともに、人の和のあったことが水海道発展の最大要因であったとされるのである。
水運は鉄道輸送が発展する以前にあっては物資輸送の動脈であり、その動脈の結接点としての河岸場から周辺に幾つかの陸路が延び、周辺農村と結ばれていた。茨城県内を流れる鬼怒川には水海道の外、上流から久保田、中村、船玉、上山川、本宗道、石下等の河岸があったが、河岸場に最も近く、商業地が開けて行ったのは唯一水海道だけであった。
ところで近世水海道は、宝永四年(一七〇七)以後三旗本領の分領となり、「三地頭三名主」による支配となっていた。商業の中心地となった宝洞宿(宝町)は七百石余の旗本日下氏の支配下にあり、名主は秋場権左衛門であった。この権左衛門組(他は十右衛門組と新右衛門組)における幕末(天明期)から明治初期における人口の動きは、商業の発展を中心とした都市の形成を物語っている。
いま簡単にそれを見ると、権左衛門組はさらに六組の組頭の管理するところと、寺内という寺院関係に分かれていた。このうち、四組が商業地である宿を、二組が農村部の高野坪の組を率いていた。
天明から明治期にかけての八〇年間で顕著な戸数増を示したのは宿側の四組で、権左衛門組二四→二九戸(うち借宅地人一七→二三)、松右衛門組四一→六四戸(同二〇→三六)、総右衛門組三五→五二戸(同一六→二六)、太兵衛組五三→九三戸(同三七→七七)という変化であった。四組全体では八〇年間に一五三戸から二三八戸へと八五戸増、そのうち借宅地人は九〇戸から一六二戸と、七二戸の増加があり、増加の大部分が借宅地人であった。この借宅地人とは、土地の売買が禁止されていた近世にあっては、地借、店借という形で、借地のまま家を建てたり、あるいは建物も借りて商売を営んだ階層を指す。したがって自営業者、諸職人、大きな商店等の従業員、日雇い労務者というように多様な都市を構成する職業、階層の者であった。
明治五年(一八七二)には、水海道村全体で、農家は一八四戸、地借人二三五戸、店借人二三〇戸、門前一九戸という構成を示し、農家の減少、地借人の増加が顕著であった。また農家といっても土地付きの家で、様々な「農間渡世」に従事していたことが知られ(富村登『水海道郷土史談』前編に紹介された松信組万延二年の農間渡世取調帳)、さらに水海道に居住しないまでも近隣の農村には季節的に、あるいは通って水海道を対象にした「半農半商」に従事する者が多く存在していた。これを、水海道に隣接する新井木、兵右衛門新田、中山の三村についてみると、新井木村は四七戸中八戸、兵右衛門新田は二二戸中四戸、中山村は六二戸中九戸が、「農商兼業」で、いずれも「水海道ニ至リ商ヲナス」とされた。彼らの商いの実態は明らかではないが、水海道には隣村の農民を恒常的に吸収し、やがてここに定着させる市場が形成されていたと見ることが出来る。