水海道銀行の設立と合併

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日清戦争後は県内各地でも銀行設立のブームが起こり、商業都市水海道も例外ではなかった。町の有力商人、地主たちが発起人となって、明治二九年三月二八日水海道町二一〇番地に資本金一〇万円の株式会社水海道銀行を設立し、五月一日に開業した。
 開業直後の明治二九年六月末の大株主・役員一四人をみると(第二六表)、前節にみた明治一七年の年商高五〇〇〇円以上の富商が七名も占めており、町内の有力商人が設立した銀行であることを示している。かれらの職業は呉服太物商五、米穀肥料商三、醬油商一、糸綿商一、地主二、不明二であり、水海道町の主要商業の代表者たちが揃っている。これら一四人の持ち株合計は一四一〇株で、総株数二〇〇〇株の七〇パーセントを占めていた。株主総数は六〇人で、うち水海道町在住の株主は四七人、持株数一六四八株であり、この株主数及び持株数とも約八〇パーセントにあたり、株式の所有状況からも同行が名実ともに水海道の銀行、とりわけ地元商人中心の銀行であったことが明らかである。
 初代頭取は五木田利兵衛、二代目頭取は山中彦兵衛で、この二人は筆頭株主と第二位の株主であった。創立時の役員は第二六表に示したとおりで、その後も町の有力者が役員を務めていた。彼らは銀行より後に町を中心に設立された水海道商品株式会社、水海道電気株式会社、常総鉄道株式会社、絹江製糸会社などの役員を兼ねており、町の経済界をリードする人たちであった。その後支店増設及び岩井銀行合併の関係などで役員の顔ぶれに多少の変動をみせている。
 
第26表 水海道銀行の大株主・役員(明治29年6月)
姓  名住 所持株数銀行の
役 職
職   業
五木田利兵衛水海道町240頭取*呉服太物卸商
山中彦兵衛200取締役*醬油商(郡会議員,町会議員)
秋山藤左衛門150地主(郡会議員,町会議員)
五木田弥五郎100呉服商,質商
青木嘉平治100取締役米穀肥料商
野々村源四郎100取締役*糸綿商
村田金治郎東京市100監査役
五木田長次郎水海道町80*呉服太物商
青木伊兵衛70*呉服太物商
植田清五郎70監査役*米穀商
秋場庸60取締役元米穀商(元県会議員)
草間記右衛門十和村60地主(元村長)
青木伝吉水海道町50
五十畑丹蔵30監査役*呉服太物商(郡会議員)
註)(1) この表には水海道銀行の役員および50株以上の大株主を掲げた。
(2) 職業は明治29年6月現在のもの,また*印は明治17年現在1か年商金高5,000円以上の商人を示す。
出典)水海道銀行『営業報告書』(明治29年上期),『茨城県史料』近代産業編Ⅱ,『茨城人名辞書』大正4年版,遠藤永吉『茨城県名家肖像録』(明治36年)。


 
 銀行設立時一〇万円の資本金は、明治三〇年三月一〇日に貯蓄銀行業務兼営の開始にともなって、二〇万円に増資した。日清戦争後の好況期の資金需要増加に応ずるため、増資資金及び一回五円未満の貯蓄預金の吸収によって、銀行として運用できる資金の増加を図ったのである。さらに第一次世界大戦下の好況時の大正六年九月に資本金は五〇万円になったが、これは銀行収益の激増に応じて資本金をふやしたためである。大正一〇年八月には、岩井銀行を合併し、旧岩井銀行株主に新株を交付する形で増資が行われ、資本金は七二万円となった。
 水海道銀行は開業いらい大正二年までは、本店だけで営業していたが、大正三年四月守谷支店、同四年七月岩井支店を新設した。さらに大正九年一月谷原支店(筑波郡豊村)、同一〇年二月に石下支店、同年一一月に三妻支店、翌一一年一月には、荒川沖支店をそれぞれ設置した。その結果、大正一一年末には六支店を有し、県内銀行では土浦五十、常磐、土浦農商銀行につぐ店舗数をもつ県西の有力銀行の一つとなった(『常陽銀行二十年史』)。
 水海道銀行の預金は明治期後半に徐々に増加していき、明治三九年末には預金三三万円で、払込資本金と積立金合計額二五万円を上回るにいたった。そして預金額が飛躍的に増加して六一万円となり、貸出金四二万円をも上回るのは大正五年のことになる。しかし大正九年の恐慌後には、ふたたび貸出金が預金を大幅に上回るようになり、大正一〇年には預金一六〇万円、貸出二〇〇万円と、オーバーローンの状態となる。大正九年から一二年にかけて、同行の経営の苦しさが、このオーバーローン状況にはっきり現われている。
 なお、預金額が前年末より減少した年は、明治三四年、四〇~四二年、大正二~四年、大正九年であって、恐慌の起った時または不況期である(第二七表)。商業都市の銀行らしく水海道銀行の預金は、景気の動向を敏感に反映している。それでも同行預金の県内普通銀行中の順位は、大正期には七位ないし八位であって、県内有力銀行の地位を保っていた。
 
第27表 水海道銀行貸付金担保別(明治29~大正8年)
期 末有価証券商 品土地建物保証・信用合 計
残 高比率残 高比率残 高比率残 高比率
 %%%%
明治29年
(上期)
1,280 3.78,82525.523,49468.0950 2.734,549
29下3,045 2.923,37321.970,40165.910,065 9.4106,885
30上4,890 3.812,354 9.5104,22480.08,832 6.8130,300
31上8,029 4.220,53010.8127,28667.233,53117.7189,377
 下6,520 3.69,575 5.3130,24872.034,66519.2181,008
33下13,110 4.160,69319.2171,40854.271,32922.5316,540
34上20,090 6.248,41814.9182,89756.274,25022.8325,655
36上36,09512.219,173 6.5171,89357.969,88823.5297,050
37上43,74816.442,38515.9124,58646.855,59620.9266,316
38下40,93314.790,54232.5118,60942.528,67910.3278,764
39上30,15416.527,92415.291,92950.233,19218.1183,200
43下42,01620.617,864 8.8117,11457.526,77813.1203,773
44上59,14125.313,975 6.0137,56058.823,173 9.9233,851
大正8上155,26124.0123,76619.1295,83445.772,72811.2647,591
註)(1) 当座預金貸越を含む。
(2) 比率は各期末の貸付金合計に対する百分比。
出典)水海道銀行『営業報告書』(各期)。


 
 預金の内訳では、第一次世界大戦期まで定期預金と当座預金とで七〇~八〇パーセントを占め、しかもこの二つの預金の割合はほぼ同じであった。当座預金に預金手形(一〇~一四パーセント)を加えると、短期の営業性預金が、定期預金を上回ることになる。貯蓄預金は、多いときでも全預金の一〇パーセント程度であるが、町及び周辺の店員、工員、農民などの一口一銭以上の零細預金を集める役割をもっている。貯蓄預金の金額は少ないが、明治四三年末では県下貯蓄預金取扱銀行一七行のなかで、貯蓄預金額で第六位である(『いはらき』明治四四年七月一日)。預金の内訳でも、同行が商業都市の銀行らしい面を現わしている。
 貸出金の担保別では、圧倒的に土地建物(不動産)が多く、第二七表に示した期間では約四五~八〇パーセントにも及んでいる。これは地方の銀行に共通の特色ではあるが、水海道地方でも銀行の優良担保としては不動産が第一であり、不動産を担保にして借入れができるような人たちが、同行の顧客になっていたのである。これについで商品担保の貸付が多く、ときには三〇パーセント前後にもなっている。この点もまた商業地の銀行としての特色である。有価証券担保の貸付は、明治末期から二〇パーセントを超すが、その割合は少ない。保証・信用による貸付は、形式上は無担保貸付に近いが、実質上は他の担保を基礎にしているので、商品担保か不動産担保のどちらかに属すべきものと考えてよい。
 水海道銀行の預金金利は、貯蓄預金では明治三〇年上期から大正八年上期まで変動はしているが、年利四・二パーセントから六・六パーセントであった。定期預金金利は六パーセントから七・五パーセントであって、県内銀行とほぼ同じ水準にある。貸出金利は明治三〇年代は年利一一パーセントから一五パーセント、四〇年代は九パーセントから一三パーセント、大正八年上期では七・五パーセントから一一パーセントであって、これも県内銀行の標準といってよい。そして時代が進むにつれて、預金、貸出の両金利とも低下する傾向があり、これも全国及び県内の銀行金利と同一の動きである。
 銀行の重要な業務に、他の銀行と契約を結んで、おたがいに送金及び取り立て(商品代金など)を行う業務があり、これを為替業務と呼ぶ。その為替(コルレス)契約をかわした相手銀行をコルレス先というが、水海道銀行開業時は東京の一行にすぎなかったが、明治三一年下期には一一、明治四三年下期には六一となった。その内訳は茨城県二二、東京府二〇、栃木県三、群馬県四、千葉県四、長野・山梨・静岡各県二、大阪府一、神奈川県一となっている。そして大正八年上期のコルレス先は一三五箇であり、東北・北海道の銀行ともコルレス契約を結んでいる。これら各地と水海道の問屋・商店との広範な取引関係があったことを、同行のコルレス網は示している。とくに米・穀物・繭・生糸の取引による送金及び代金の取り立てに同行は役立っていたのである。
 こうして景気変動の影響を受けながらも、水海道銀行は堅実な歩みをつづけており、配当率も八パーセントから一二パーセントを維持していた。したがって大正九年に、財界不況で経営の行きづまっていた岩井銀行(資本金二五万円)を救済し、翌一〇年八月には合併する余裕があった。しかし大正九年三月に始まる戦後恐慌、大正一一年末の銀行動揺は水海道銀行に大きな打撃となった。大正一一年一二月一五日に報徳銀行水海道支店が休業すると、その余波を受けて水海道銀行も激しく取り付けられ、休業寸前となった。さいわい県当局の斡旋により二〇万円の支払資金を調達することができ、休業は避けられたという(鰕原幸作『茨城県政夜話』、『常陽銀行二十年史』)。
 だが、この大きな試練は、中央銀行または有力な都市銀行のバックアップのない地方銀行の将来に対する希望を失わせてしまった。水海道銀行は大正一二年四月に常磐銀行(本店水戸市、現常陽銀行)とのあいだに合併の話がまとまり、同年八月一一日に解散して、同行の本支店は常磐銀行の支店となった。こうして唯一の地元銀行は水海道町から姿を消した。