製糸会社の設立

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明治期には、輸出産業として製糸業が重視され、初期の士族授産事業を始めとして国や県によりさかんに奨励された。茨城県では製糸原料としての繭を生産する養蚕業が次第に農業経営の中にとり入れられ、定着をみせていったことについては、農業の章でもふれたとおりである。しかし製糸業については、古河、真壁などの一部の地域を除いて安定的な発展は見られなかった。購繭資金の前貸し制を利用して投機的に営む業者もあったが、長続きしない場合が多かった。水海道は商業都市としての性格を強くもっていたため、製糸業に手を染める者はなかったが、日清戦争後の企業勃興期の情勢を反映して、明治三〇年五月になって、漸く絹江製糸会社という一社が設立された。工場は鬼怒川に近い台町に建てられ、資本金は三万円、蒸気機関一台を備え、創業時には女子工員約一〇〇名を雇用する中規模のものであった(明治三六年当時にはさらに一六一名の女子工員を擁した)。この工場用地は、秋場庸が「自己の所有地の約三分の一にあたる四反九四一歩を明治三〇年から二度に分割して貸出し」たものであった。(秋谷紀男「明治後期の茨城県西地方における中小地主の動向(覚書)」)。
 この会社の経営にあたったのは、水海道商品会社の監査役にもなった筑波郡十和村の和田高太郎、同じく十和村川又の旧家草間記右衛門等であり(『常総文化史年表』、『茨城人名辞書』)、経営者の主力は町以外の人であったと見られる。一〇〇名を超す女子工員のため寄宿舎が設置され、工員は筑波郡、真壁郡、遠くは笠間方面からも雇われてきたという。
 絹江製糸は明治四〇年二月、理由は判然としないが紛議が起こり、明治四二年五月には、同一場所に笹屋製糸場という会社が創設を見ている。同社は「機械は百八人取にして、動力には蒸気機関を用ひ、業務頗る盛なり」(『結城郡案内記』)と記されているから、絹江製糸場を受け継いだものと考えてよい。経営に当たったのは飯田栄蔵であり、飯田製糸場とも称された。同社も大正一一年(一九二二)、ストライキが起こり、大正一二年からは三省堂製糸所と変わっている。このように明治三〇年設立の絹江製糸は紛争の度にその経営体制を変えながら、昭和五年頃まで存続したが、昭和一一年の時点ではその名前を確認することはできない。
 また明治末期、群馬県に本社をもつ碓氷社が繭生産地である茨城県にも進出し、農家に座繰製糸の普及をはかった。当時農家副業として屑繭整理になる座繰の奨励も行われたから、生産者は次第に増加しつつあった。碓氷社はこの座繰り糸の共同揚返工場を結城町、西豊田村、豊岡村(水海道組)などに設置した。この水海道組の設立に当たって地元で尽力したのは大生村の地主で村長も勤めた渡辺三永であったが、その後あまり振わなかった。さらに当地方における製糸業の試みとして、大正一〇年豊岡村に花屋製糸所(釜数三四)が、同一一年には大生村に山本製糸所(釜数五〇)が設立された。また昭和二年の「水海道町案内地図」によると、水海道小学校の北側に宮本製糸場という工場も設置されている。このように近くに養蚕地帯を抱えた水海道には、規模はあまり大きくはなかったがいくつかの製糸工場が設立され、製造都市としての一面をも見せている。