水海道地方にあっても明治前期において、各地に木綿の生産がみられ、これら反物を取扱う水海道町の呉服、太物商人が大きく成長したことは既にみてきたとおりである。
明治後期になると、これら織物業は、自給自足的な農家副業という側面を色濃く残しながらも、次第に専業的に営まれるようになっていった。「豊岡村是」によれば、豊岡村内の木綿生産農家は三五戸で、産出数量は三三九八反(価格三七三八円)であった。そのうち同村からの輸出品となって販売されたのは、木綿一八九八反(二〇九七円)であった。「概ネ自家用被服ニスルモノニシテ販売スルモノ僅カニ二十戸以内」であったが、「其販売額二千百反位ニシテ機業ヲ差引クトキ一反廿三銭ノ利益」を得るという販売目的には、約六〇パーセント近くが、織り出されていた。
同様に「五箇村事蹟簿」で明治四二年における同村の状態をみると、機業戸数として、家内工業二戸、織元二戸、賃織業二〇戸があり、これらによって絹織物四八〇反(一九二〇円)、絹綿交織―半絹織三〇〇反(六〇〇円)、白木綿六五〇〇反(八五四〇円)が、生産された。この産出木綿全てが、(織元も含めて)機業戸数に記された二四戸から生産されたのか、自給的副業の部分が含まれているのかは分らない。しかし、豊岡村の場合も五箇村の場合も、明治末期において木綿を中心とした織物生産がかなりあり、専業的に営む者が成長しつつあったことが確認される。
さらに石下町に隣接する三坂地区においては、石下織物組合に属する機業者として、明治四〇年頃に皆葉与惣治が、また染業者として猪瀬清兵衛や小久保佐左衛門の名前がみられ(『きぬのほまれ』)、この地方が石下紬の産地として組み込まれていたことを知ることが出来る。
水海道町には、明治末期から醬油袋に用いられる布地の織物を始めた北村製布工場や、筑波郡真瀬村で大正期足踏機械二台で織物を始め、昭和期に水海道に移った丸三繊維工場があった。
宝町の北村製布(近庄)は大正七年から豊田自動織機を買い入れ、これが二〇台にもなり、盛況となった。丸三繊維は真瀬村では電力確保が困難な事情もあり、昭和一二年水海道に移り、当時四〇台の力織機を使い、石下町に四軒の出機を置いたという。
北村製布に醬油布を納入する人たち
また明治期、水海道町出身の織物業者として、秋場三松の名前を忘れることが出来ない。三松は水海道の医者秋場秋桂の三男に生まれ、明治一六年、地方物産である織物(販売)業を創業した。翌一七年、地方織物の取扱い店を東京に開き、石下紬を中心に全国各地に販路を拡張した。この間地方産出の織物の品質向上にはとくに意を払い、新技術の開発や、粗製濫造の防止に努めた。明治三五年まで東京支店にあって活躍したが、同年帰郷し、石下を拠店として、益々織物業の向上と販売に尽した。