幕藩期において農民は瓦葺を許可されず、瓦製造業者も幕府の指定を受けた通称「おから屋」と称された業者のみで、幕府の指令がなければ製造することも出来ない厳重な規則の下に置かれていた。関東では水戸市域と、現在の東京都葛飾区柴又に指定業者があり、水海道地域へは鬼怒川の水運で「柴安」と呼ばれる柴又の瓦が運ばれていた。幕末期になると、規制もゆるみ、瓦で屋根を葺く者がふえ、おから屋という職人が各地に進出して、そこで瓦製造を始めるようになった。
そうした中で、鬼怒川、小貝川沿岸の土が瓦製造に適していることを認めた山田清一という人物が、幕末期に五箇地区の古敷で瓦製造に従事したのが当地方における最初の試みであったとされる。また一方で水戸方面から坂入倉吉という職人が筑波郡谷井田地区に移り、そこで瓦製造を始めたともされ、水海道周辺には瓦製造が次第に広まっていったという(この項の大部分は茨城労働基準局給与課「水海道地区における土瓦製造業の実態」)。
五箇地区では山田清一によって養成された岩上縫作、中山和助、松本周作、飯野藤四郎、山崎宇兵衛らの人びとが、明治一〇年代それぞれ独立して同業を起したとされるが、豊岡、大花羽、三妻の各地区に業者が増加していった。製造は大部分手作業であったが、大正一一年に、三妻村の田中喜七が土練機を設置し、その後手まわしの製瓦器が導入されるなど、技術改良も進んだ。関東大震災で東京の瓦葺の家屋が大打撃を受けたことから一時瓦を使用する者が減少したが、業者の努力で改良を重ね、再び増加するようになった。
さらに水海道地方では昭和八年の小貝、鬼怒の氾濫によって両川の大改修が行われ、その区域に当たった筑波郡真瀬村と五箇村、大花羽村の業者の多くが廃業するか、他地区に移った。戦後、昭和二七年現在の調査で、水海道市域には、水海道町一、大花羽村二、五箇村六、三妻村四、豊岡村五の業者が存在した。しかし土瓦製造はその後衰退し、当業者もそれぞれ販売業等に転換した。
また明治末期において行われた農村の手工業調査で水海道地方に「経木真田」と呼ばれる〝ござ〟の製造が行われていた。主な産地は大花羽、三妻、水海道のほか、宗道、石下、猿島郡の中川、神大実地区にも及んだ。
その沿革は、大花羽村安楽寺の住職弓削俊澄が日露戦争中、女子手工業に有利として横浜地方から教師を招いて、村内婦女子に修習させたのを契機としていた。時の結城郡長羽田久遠が、軍人遺族生業扶助事業としてこれを斡旋奨励したため、各地に普及したという。
経木真田編みの生産形態は、東京の業者が水海道や石下に出張所を置き、あるいは埼玉や千葉から直接入って冬期間の副業として原料を各家庭に配布し、工賃を支払って製品を回収する、「委託生産」という問屋制家内工業であった。その賃金は、「百八十尺一段ニ付十五銭以上五十銭位迄トシ平均一人一日ノ工賃二十銭乃至二十七銭位」とされた(「各府県輸出重要品調査報告」の茨城県の部、明治三九年)。当地方ではおよそ二四四〇人、戸数一五四〇戸という多数が生産に従事した。
農村部においては、在来的工業として醬油醸造業が広範に行われていたが、次第に規模の大きな業者に集中するようになり退業した。替って大正初期において三妻村に石塚翁助、豊岡村に飯田嘉兵衛、同荒木太助、菅原村に森山鶴吉らの、主に地主による醬油醸造経営が行われていた。