常総線の開通と町の変化

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明治以降の水海道町における人口、戸数の動向をみると、町の変化そのものが端的に反映されていることがわかる。すなわち明治三、四〇年代における戸数は約一〇〇〇戸の線を保持し、人口では約五八〇〇~五九〇〇人程度であった。この規模は、町村制の実施(明治二二年)により新しい行政町村として発足するに際し、周辺農村をその中に組み込むことなく、近世村のまま単独で町を形成したこともあって、県内では相対的にみてそれ程大きな方ではなかった。
 しかし町の戸数、人口の動向には、周辺の農村地域と比較して、明らかに異なった様相がみられる。具体的には農村部は、本籍人口に比べて現住人口が少なく、県内外の他郡市への寄留が「出超」状態にあるのが一般的であった。しかし水海道町をみると、現住人口がつねに本籍人口を上回り、さらに戸数等の増加も顕著に現われていた。つまり幕末から明治期において、周辺農村部から様々な形をとって臨時的にあるいは恒常的に流入していた状態は、明治中後期になっても続いていたのであった。
 しかしこうした水海道町においても、戸数、人口において著しく増加したのは大正期から昭和初期にかけてのことであった。いま簡単にそれをみると、戸数は明治四四年(一九一一)一〇〇〇戸、大正九年(一九二〇)一三一八戸、昭和五年(一九三〇)一五八六戸と、約二〇年間に五八六戸、明治四四年を基準にすれば約六割の増加をみている。同様にこの時期の人口をみると、五九九四人から七五〇六人へと、千五百余人増加をしている。これは、周辺農村に対して商業都市の諸機能をもっていた町の性格を示したものであるが、水海道の場合は常総線の開通(大正二年)が明らかにその転機をなしていたと思われる。
 ではこの間増加した戸数や人口は町の中にどのように定着し、それによって町の景観や性格はどのような変化を受けたであろうか。先ず景観を検討するため、大正四年(一九一五)と昭和二年(一九二七)の町の市街地図を比較してみたい(前者は水海道二高創立七十周年記念誌『御城』、後者は水海道一高八十年記念誌『済美』に掲げられている)。大正四年の常総線開通直後の地図によると、宝洞宿の水海道銀行前から停車場に通じる道路は「停車場通り」と称され、運送店、旅人宿、料理店、燃料店、自転車店などが並び、鬼怒川、豊水橋方面から、町の中心が移りつつあった。昭和二年の地図ではこれが、停車場通りを中心として、宝洞宿から駅に向って右側の横町(栄町)通り、左側の五木榎―淵頭通りの両通りの内側の部分に倉庫、旅館、飲食店、医者、個人店舗などの諸々の機関や営業所が数多く立ち並んだことがわかる。
 

恵比寿講における大売出し

 同時に、町の中心からはややそれているが、下妻方面へ結ぶ街道筋にあたる橋本町には商店が増加しつつあり、また横町―本町間にも民家が増加していった。