大正期から昭和期にかけての町の姿は旧来のものを残しながらも、大きな変化を示していった。大正九年におこなわれた第一回国勢調査当時の水海道町の職業構成をみると、農業一九・三パーセント、工業二七・四パーセント、商業三七・三パーセント、交通業四・四パーセント、公務自由業六・二パーセントその他となっている。商工業で六四・七パーセントを占め、この二業が町の中心であったことがわかるが、交通及び公務自由業が合わせて約一一パーセントと、新しい都市的な職業の進出もみられる。前にみた大正四年の市街地図には、当時における電話加入者五六軒の名簿も添えられているが、その後大正二年の県下電話帳をみると七年間に二四軒増加した。電話の加入は偶発的なものであるが、次第に、近代的な営業や個人生活の上で必需品になっていったことを考える時、ひとつの目安ともなりうる。増加した二四軒をみると、会社関係では、土浦農商銀行、本橋運送店、水海道凍氷株式会社があり、旅館、飲食店四軒、医者三、乾物、小間物、薬種、時計、肥料等の一般商店一一、倉庫業一、会社員一、郵便局用一となっている。また既設電話の所有変更も当然行なわれており、若い番号でも新たな所有者になっている場合が何軒かみられる。主なものでは常総鉄道営業課(一七番)、報徳銀行水海道支店(三五番)、常総運輸自動車株式会社(三八番)、山田医院(一五番)、織物買継商、秋場三松商店(二二番)などである。
電話はその後大正一四年一一三番、同一五年一二三番、昭和二年一五〇番、同三年一七一番までとなり、増加の一途をたどった。電話の増加は個人、商店の発達にともなうものが基本であったが、役場、学校等の官公署のほか、諸会社、諸団体の増加によるものも多かった。昭和三年における、個人商店、学校、役場等を除くと、以下のものがあった。
水海道病院(飯田笹子)、(株)茨城無尽、(株)茨城模範製薬、いばらき新聞社通信部、五十銀行水海道支店、(株)常総鉄道営業課、常総新聞社支局、常磐銀行支店、同出張所、同倉庫、(株)東京電燈、東京日々新聞通信部、(株)福岡澱粉、(株)水海道合同運送、水海道町信用購買組合、(株)水海道凍氷、水海道農業倉庫、
このように銀行、会社などのほか、新聞社通信部や信用購買組合、農業倉庫等、周辺農村までをも対象とした広範なサービス部門が増加し、さらに個人開業医(中でも歯科、眼科、婦人科などの専門医が増加)の存立など、地方都市の諸機能が多面的にととのっていく。
また映画館、劇場、飲食店、芸妓屋などの娯楽部門も増加し、映画館(宝来館)は時に政談演説会場となっていた。