大正一二年九月一日の関東大震災はこの地域にも波及し、大きな混乱をもたらした。この地震は鬼怒川の堤防陥落(『いはらき』新聞、大正一二年九月五日付)とか家屋の全潰(たとえば水海道町一二戸、大生十数戸、『いはらき』同年九月三日付)とそれによる死傷者等の被害をもたらしたが、東京に近接していることによる避難民への対応という問題をも派生させた。翌九月二日、水海道駅は避難してきた人々、東京方面の安否を気遣う人々、取手―上野間の不通のため下車する人々等で早朝から混雑を極め(同、九月三日付)町、警察署、「篤志家」、「一般寄贈」等による炊き出し(同、九月一〇日付)が行われた。この一般寄贈には町小学校教職員・児童、豊岡村愛国婦人会などが参加し(同、九月一二日付)、また義捐金一〇〇〇円が水海道町青年会、同軍人分会連合の募集によって集まっている(同、九月一五日付)。公的な対策としては結城郡の郡医師会と町村長会による避難者への「救療券」の配布(同、九月一八日付)、それに加えて飯米、衣服代などの支給が実施された(同、九月一九日付)。郡内に避難した罹災者は結城町一千余名、水海道町七百余、石下五百余、その他各村平均約五、六十名(同前)であった。また郡内罹災転学児童の最も多いのが水海道各校で五八名、結城校四四名と続く(同、二一日付)。郡、町村人民、並びに当局は日本人の避難民には最大級といってよい援護活動を行った。将に「総動員」の観があった。しかし、この震災時に東京では朝鮮人虐殺が激しく行われ、また社会主義者も殺されたことは周知の事実であり、県内でも「不逞鮮人」警戒と称して、各地で〝朝鮮人狩り〟が行われている(同、九月五日付)が、水海道に関しては次のような記事が残されている。
「水海道町では不逞鮮人襲来の流説に消防隊、青年会員は各部署を定めて徹宵警戒し又対岸豊岡村から岩井町に至る県道其他各町村で警戒中」(同、九月六日付)。
内務省警保局長自らが「不逞鮮人反逆に対し専ら之れを取締る」(同、九月五日付)としたり、新聞もその「跳梁、暴虐」(同前、社説)と煽り、未確認の情報が次々と報じられる有様であったから、パニック状態になることはありうることであったろう。しかしながら、軍人会や青年会もふくむ一般民衆の中にも、〝朝鮮人狩り〟に直接手を下したり、下そうとした事実がなかったわけではない。
以上のような関東大震災への特に東京での対応を通して、大正デモクラシーのかげりと見るむきもある。しかし茨城県でも、青年会や軍人会の「自主化」「民主化」さらに無産運動(これは経済的民主化といってよい)の展開がこの大震災以降本格的に展開する事実からみて、必ずしも「かげり」とのみは評価できないといえよう。青年や中間層の多くはこの震災が我が国「文明の心臓」の「破裂」であり、これを治療するのは「蝸牛角上の様な党人閥弱輩」にまかしてはおけない、全国民が「あらゆる持ち合せの余力を」結集する「挙国一致」が必要(『いはらき』の社説、大正一二年九月五日付)と考え、政治への自分たちや民衆の参加を主張するようになった(これを後に述べる「惜春会」は「皇室中心主義」にもとづいた「能力総動員」と形容して主張している)。
この地震への対応をめぐっていっせいに現われてきた排外主義、皇室中心主義、青年会、軍人会、「自主化」「民主化」、反既成政党、反藩閥政治、普通選挙への要求、そして総動員といった複雑な側面を有しているこれらの動きが以後どのように展開するか次に述べていこう。