青年団運動

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五箇村小学校を中心とする自由教育運動については教育(第六章第二節参照)のところで扱われているので、ここでは大正後期から昭和初期にこの地域で展開された青年たちの動きをみておこう。この場合、相互に関係しつつも町部と村部ではかなり異なった特徴をもっていたので、分けて述べることにする。
 大正中期までは全国どこの青年会も会長、副会長には市町村長、小学校長などがあてられる、いわば「官制青年団」であった。大正後期に青年会員による自主的運営に移行されるが、その移行の仕方に各地域の特徴があらわれる。水海道町青年会においても、大正後期までは会長は町長鈴木吉太郎、副会長は水海道町尋常高等小学校長松沢得三であった。このあとの会長になり青年会のリーダーの一人になったのは沼尻茂である。彼は水海道高野の自作地主の家で祖父が町議、学務委員、父が町議、町農会長などをしていた家に生まれ、水海道中学卒後、一年志願少尉、大生小学校代用教員を経て、大正八年から水海道尋常高等小学校教員となっていた。
 大正一四年頃行われた青年会長交替は、松沢校長転任に際し、沼尻が自発的に町長に会い、次期会長を引き受けたことによって行われた。その背景には町長と、当時農会長、米穀検査委員などをやっていた父親が日頃から親しかったこと、また、沼尻自身がかねてから在郷軍人会や青年会の指導にあたっていたことなどがあったという。ちなみに彼は後に述べる普選第一回衆院選以来、この地域を基盤にして民政党代議士(第二回に当選)となった風見章の甥であった。風見の家も彼の家ももともとは政友会派で、前にみた政友会代議士飯村五郎家も親戚で、衆院選挙では飯村を支援したという(ただし大正一三年衆院選では憲政会系斉藤茂一郎を父親とともに支持したというからそれほど固定的ではなかった側面もある)。
 沼尻は以後、昭和の初期まで数年間会長をやっているが、当初は青年会の活動は非常に不振であったという。こゝで行われた活動は青年たちを中心に体育奨励、さらに弁論大会、また東京からの「名士」を招いての講演会、さらに普通選挙運動などであったという。弁論については春秋一回ずつ、水海道小学校講堂で警察署長、女学校長、小学校長などを審査委員にして行われ、郡大会で優勝した青年もあったという。また当時はラジオなども普及しておらず、直接東京の名士の話を聞くことがよく行われ、軍の飛行機の採用を主張していた陸軍中将長岡外史、などを呼んだという。さらに普選運動は青年会としても行っていた。その一環として、かねて後藤新平が「普選準備会」運動をすすめており、一個三〇銭の徽章を一〇〇個買えば、つまり一〇〇人の賛同者を集めれば、後藤が直接そこで講演するということであった。それを聞いた青年会はその準備を整え、東京の自宅に青年会幹事が赴き、後藤の了承を得て水海道で講演会を行った。場所は小学校で児童にも参加させた。後藤の話は「自治ダンゴ」というテーマで「人の世話にならぬよう、人の世話をするように」との趣旨であったという。またあとから述べる古谷明(十和村)、染谷秋之助(三妻村)など村部の青年会リーダーたちとも連絡があり、昭和の初期頃に水海道中学の寄宿舎で合宿もやった。その時に東京の名士として、古谷たちは大正期における東大の新人会、昭和期における無産運動のリーダーである麻生久を提案したが、沼尻は青年会の活動は中立的であるべきで、麻生のような「かたよった人物」を招くのは反対であると述べ、結局この話は立消えとなったこともあるという(以上は昭和五七年六月七日、沼尻茂氏談による)。大正一五年(昭和元年)の青年会活動は次のとおりである。
 

後藤新平を迎えて

    二月一〇日町主催建国祭(会員五〇余名参加)。同三月一日三妻小学校における郡連合青年会主催閲団
   式(同七六名)。同日運動競技会。町教育会主催勤倹奨励簡易(生命)保険普及宣伝活動写真会後援。三月
   一〇日郡主催青年弁論会二名選手派遣。三月一二日郡主催一夜講習会(七名参加)。四月一日定期総会、
   青年弁論会。一〇月二日秋季弁論会。一〇月一五日青年団服帽章制定。一〇月一九日小学校庭で青年
   (店員慰労)運動会を主催。一一月九日公民学校後援の意味で郡会役員二〇名督励員に嘱託。一二月八日
   今上陛下病気平癒祈願を各種団体と共に郷社になす(全員参加)。昭和元年一二月二五日町主催天皇奉悼
   式に役員、会員参加。他に各支部の活動として台町支部豊水橋開設式に協力。高野支部の定期堀浚(ほ
   りざらい)などが行われている(水海道町「事務報告書」「昭和二年町会議事綴」)。
 
 以上のように、水海道町青年会は「官制青年団」から「自治的青年会」への移行も、またその活動においても同時期の町の政治体制と対立するものではなく、それを補充し、その一環としてあったということができよう。この傾向は沼尻が会長であったその後の数年間も基本的に継続していたといってよいだろう。