惜春会北総支部

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このような運動を行ったなかには当時、真鍋町(現土浦市)に本部をおき新治、筑波、稲敷、結城郡にも会員を有する「惜春会」に関係していた者もあった(昭和五三年三月一六日高島氏談)。この会は大正一二年(一九二三)一一月三日に真鍋町で正式に発会し、後に民政党県議、大政翼賛会県支部庶務部長になる菊田禎一郎等によって作られたもので、青年会自主化、普選運動などを行い、青年党あるいは普選にそなえて各職業、各階級に即した政党の一つである、「農民党」を目指していた。メンバーは五〇〇名近くで小作層まで組織している。全体としては反既成政党的志向を有しつつ、政治的行動においては反政友会を標榜して憲政会(後に民政党)系として行動している。リーダーは在地の名望家の子弟であり、沼尻や高島と同様の経歴をもつ者が多い。
 彼らの当時の青年会に対する態度について機関紙『惜春』(大正一二年一月二〇日付)を見ると「官制青年会」「御用青年会」に籍をおいている青年たちが、郡長や村長に統率されて「それらの紋切型の訓話などを有難がったり、相撲や、マラソンなどの運動会に有頂天になっているということは愚劣の甚しきもの」であること、「今日の青年会は軍人会と共に、最も徹底的なる愚民制作の鋳型」であり「この不合理なる愚民制作所を改造して真の農民覚醒の揺籃地」とせねばならぬと述べている。
 この会の「北総支部」の発会式は大正一三年四月一三日に行われた。支部創立委員長の染谷秋之助はその数日前本部を訪ねて、同志の糾合を計って盛んに活躍しつつあったが同志数十名と相計り、水海道町報国寺で「無数の聴衆」を集めて発会に到った(『惜春』大正一三年四月二八日付)。この「同志数十名」のなかには高島や後に『水海道新聞』の発行人となり水海道地域の青年運動のリーダーとなる元朝日新聞記者の栗原俊三、古谷明(十和村役場吏員、後に助役)、農民運動家になる広瀬正(五箇村)、野口豊(同)等がいた(前掲、高島氏談)。創立委員長染谷は、菁莪学館卒、戦後に三妻村長、郡町村会副会長を経て県議の経歴をもつが、昭和四年段階では風見章の支持者で民政党系とされている(『水海道新聞』昭和四年一〇月一五日付)。この支部の活動や思想傾向は、「惜春会」全体と共通しているのはいうまでもないと思われるが、政治運動をするために尾崎行雄や後藤新平を呼んで話を聞いたこともあるという(この点では町部の青年会と活動の一部では共に行動していたと考えられる)。また、この支部に集まったのはほとんど農民であったが、そこで農業の問題がよく話しあわれたという(前掲、高島氏談)。
 これらの青年たちは、大正一三年の総選挙で政友会の飯村五郎(当選)、憲政会の斉藤茂一郎の新人同志の一騎打の際は、斉藤を支持したという。これらの青年たちの中には後に左翼系の運動を行う人々もあり、昭和初期までは各村の自主的青年会運動のリーダーとなっていった。
 またこれまでみてきたような自主的青年会運動などの新しい動きとともに、この時期には小作人層を中心とする農民運動が抬頭し一つの政治勢力になりつつあった。