普通選挙

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茨城県で普通選挙の下で最初に行われた選挙は昭和二年(一九二七)九月の県議選である。この時、全県有権者数は約二八万人で前回大正一二年時の同一四万人と比べて倍増している。水海道地域ではそれまで町長を務めていた鈴木吉太郎が町長を辞職し、民政党系として出馬し当選している。現水海道市域から明治一二年(一八七九)最初の県議選以来県議は八人出ているが、そのうち旧水海道町から出ているのは秋場庸(在任明治一二年―二一年)と大串浩(大正八年)の二人のみで、しかも大串は豊田村が実際の住所であった(「県議略歴」『茨城県議会史』)。しかし普選以後は、鈴木吉太郎、さらに増田兆五(民政系、昭和六年)、鈴木春吉(無所属、昭和一四年―二一年)と町部から議員が出ている(昭和一〇年選挙の際はそれまで町長であった武藤久兵衛が国民同盟で立候補したが落選)。
 普選がこの地域に政治的な画期をもたらしたのは、昭和三年二月の衆議院普選第一回選挙であった。普選は「裏店のオヤジの尻を突つき、鼻垂れ小僧をかって演説会場に出掛けるやうにし」(『水海道新聞』昭和四年七月一五日付)、様々な諸団体や青年たちの動きが活発になり「尋常一、二年の生徒等まで父兄の感化をうけてか口々に候補者の甲乙に論及」(同前、八月二五日付)する始末であった。この第一回の衆院選には風見章(民政党新人、水海道町高野)、飯村五郎(政友会前、五箇村)などのこの地域出身者が立候補したことも普選の雰囲気をもりあげた一因であった。しかし、これまで述べたようなこの地域の社会的政治的秩序を内側から動揺させるような青年たちや無産層の動きを、新人風見章の立候補とその運動が表現したといっていいであろう。
 風見は明治一六年(一八八三)にこの町に生まれ、土浦(転校)、下妻(放校処分)、水海道中学を経て早大に学び、大阪朝日新聞などに勤めたあと、信濃毎日新聞社主筆をしていて、郷里に戻り立候補した人物である。信州にいる間には警察署廃止反対運動や製糸女工ストライキなどの民衆運動や無産運動に深い理解を示す言動をとっていた(須田禎一『風見章とその時代』)。風見の積極的支持者は『いはらき』新聞社社長で元自由党代議士、川崎銀行、日本火災保険の重役、常総鉄道会社の重役などをやっていた飯村丈三郎、さらにその飯村とつながる地元の『いはらき』水海道支局の志富靱負、同じく増田兆五・千代子夫妻、『博報』という小さな新聞を出していた吉田豊治、さらに早大の学友で豊岡村の名望家飯田憲之助などである。こうしてみると風見を直接支援して自ら動いた人々は中学や大学の同窓や、非政友派の名望家たちや実業家、飯村丈三郎につながるジャーナリストたちであった。
 その候補者が訴える層は普選によって参政権を与えられた中下層の人々や青年たちであった。そして農村地域が基盤ということもあって訴える内容は農本主義的なもので、また選挙方法もこれまでのような名望家中心の「旦那選挙」でなく、直接大衆に集会や座談会を通して訴える方法であった。風見はこの時の選挙では一万四一一八票を獲得したが六位(定員四)で落選した。しかし、水海道町では総投票数一二五二票のうち七九〇という圧倒的な票を獲得している(第三一表参照)。
 
第31表 茨城3区選挙得票
(水海道町,五箇村分)

候補者所属水海道五箇



飯 村政友313519
民政10
海老沢民政11613
宮 古政友41
鈴 木政友10
風 見民政79030
香 取政友10
菱 沼中立2612
1252575



風 見民政926135
飯 村政友278432
民政150
海老沢民政9522
鈴 木政友40
1318589



飯 村政友415447
堀 江政友52
佐 藤政友200
風 見民政81498
民政201
山 本民政8721
富 山中立24
1,363573




風 見国同会1,063116
飯 村昭和会273380
山 本民政234
佐 藤政友253
天 谷民政187
海老沢民政443
1884
大 関21
1,466598




風 見中立1,04883
赤 城中立
昭和会
318
佐 藤政友261
飯 村昭和会319449
山 本民政211
政友2956
1,474598




赤 城翼政137117
山 本翼政16956
佐 藤翼政847
小 篠翼政
(中立)
64862
飯 泉中立192187
杉 田中立4963
飯 島中立3910
根 本中立975
1,415507
衆院事務局各年度『総選挙一覧』より作成