普選と町村政治

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普選状況ともいうべき社会的、政治的流動化は町域においても明確にあらわれてきた。まず町長の頻繁な交替がその一つである。明治後期以来昭和二年まで十数年町長だった鈴木吉太郎が県議(普選第一回)選出馬でやめたあとは、地主で企業家、政友会系の秋山藤左衛門と、同様の経歴をもつ青木常吉とが、町長不選出の期間もはさんで短期間で変った。そのあとは地主で水海道銀行取締役などを勤めた民政系(後に国民同盟系)の武藤久兵衛(昭和一二年まで)で、ここまでは党派は異なっても町の「富豪」である。しかし次の塚田節(昭和一二年~一八年)は中学校長出身で、さらにその後は元新聞記者の風見側近である神林鎮男(昭和一八年~一九年)にかわった。そして敗戦に向う昭和一九年に再び鈴木吉太郎が登場する(昭和一九年~二一年)。以上をみると第三二表のごとく、町長が徐々に資産家に限らなくなっていることがわかる。
 
第32表 歴代町長戸数割等級表
青 木 5等級
武 藤 7 〃 
塚 田22 〃 
神 林43 〃 
「昭和16年度町民税戸数割」
水海道町庶務綴


 
 さて昭和二年、鈴木吉太郎が県議選出馬のため町長をやめたが、鈴木自身も、それを支持する多くの町会議員等も、県議当選後再び彼が町長になることを予定していた(『水海道新聞』昭和四年四月五日、同七月一五日付)。しかしこれに対する「一つの反動勢力が表面に現れた」。それが秋山町長であった(同前四月五日付)。しかし約九か月で退陣し、青木町長になる。この町長に対して町長支持派反町長派がせめぎあった。そのせめぎあいのあり方と内容は、昭和四年四月二五日に行われた普選による第一回町議選に明確に現われた。この年の三月に町長不信任を意味する予算削減案が議員の間から提案され、町長は「町民大会」で結着をつけるなどと述べ、町会は「行きづまり」の状態になっていた。反町長派としては梅沢貞吉、増田兆五、中野喜太郎などの民政党系、秋山信吉などの無産階級代表(同前、四月一五日付)、前町長の秋山藤左衛門などで、彼ら一五人は「愛町同盟会」を作っている(同前、四月二五日付)。秋山のような富豪も、増田のような当時の中間層も、秋山信吉のような無産階級も、この時期に反青木町長派として共に行動した。選挙結果は定員一八名中、「愛町同盟会」は一三名を占めた。
 『水海道新聞』はこの結果を従来の「町議の大部分は資産家で政友派若しくは生温い穏健中立者」であったのに対し、それまで政治的に顕在化しなかった「新興勢力」が顕在化し「普選によって堰は切られ……圧迫、屈従の甚しかっただけにその反撥は恐ろしい勢いでこゝに新進気鋭の青年を躍動せしめ……こうした関係から、従って民政派に走るものが多くなった。が、しかしこれを以て民政派の勝利と見ることは出来ない。なぜなら当時民政派は野党としてあったので町民日頃のうっ憤をもっていく絶好の位置にあっただけ」だと評した(七月一五日、八月五日付)。
 この普選第一回町議選結果と普選直前の町議選とを比較している資料がある。それによると(前者を旧、後者を新としているので、それに従う)当選町議のうち「屈指の資産階級」は旧三→新二人、地主三→二、銀行会社員二→一、医師弁護士二→一、小作人や労働者の団体を背景とするもの両者ゼロ、選挙人九二一→一四一一人、人口一〇〇〇人に対し一二七→一九四人、投票率約九四→九〇パーセント、候補者二一→二〇人、である。普選による「選挙ノ利弊」について「利益」は「無産階級ニ属スル誰人(制度ニヨル)ニモ権利ヲ与ヘラレテ普遍的ニ平等化セルハ……特長デアルト同時ニ其ノ利益ナリ」とのべ、「弊害」は「無産階級ノ進出――権利ノ平等ヲ絶叫シテ、有産階級ヲ恐悚セシメントスルノ傾向ト、其ノ団体ノ勢力等ニ依ッテ主義主張ヲ貫徹セントスルノ感ナキ能ハサルハ弊害ノ著シキモノナルベシ」とのべている(水海道町長青木常吉より県内務部地方課長へ「市町村会議員選挙ニ関スル件」「昭和四年水海道町庶務綴」)。
 なお、この地域の一町一三か村の普選第一回町村会選挙の当選者党派別は、政友会系九六名、民政党系二七名、中立四九名、無産派二名、新旧別では、水海道、十和、鹿島、長崎、三妻、大花羽、菅原は新旧同数、五箇新七旧五、大生新四旧八、豊岡新八旧四、小絹新五旧七、菅生新一〇旧二、坂手新八旧四、内守谷新五旧七名である(『水海道新聞』昭和四年五月二五日付)。