挙国一致体制

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昭和七年(一九三二)の五・一五事件(茨城県人が多数参画)によって、政党が政権を掌握する体制、すなわち「政党政治体制」が崩壊し、昭和一五年(一九四〇)に大政翼賛会ができるまでの間は、軍部、官僚、政党等の一つだけが全面的に政権を掌握しないまま政治が行われた時期であった。この時期を「挙国一致体制」期という。水海道地方のこの時期の動向は、前節でふれたような様々な動きが、特に恐慌の進展に加速されて「資産家」層の政治力の後退、町における中小零細商店主たちの政治組織の形成、大生争議や社会大衆党や日本農民組合などの無産層の政治的抬頭、にみられるように、一方における社会諸勢力の独自の組織化と政治的顕在化の進行によって、「勢力の……中心がなくなる」、すなわち政治的多元化ともいうべき状況に到ったことである。