大生争議

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大生争議には、それに直接接続する不可欠の前史がある。昭和四年(一九二九)二月二五日の『水海道新聞』に「一農民」から「俺達をどうしてくれる」という投書が掲載された。その趣旨は「今は全く総てが都会に厚く、地方に薄い」、どの地方でも愛国婦人会、赤十字、社会事業協会などに「地方の特志(ママ)家の寄付ばかりがつのられる」、「百姓は……牛や馬の如く働いてそして何等人間らしい生活にありつけねえでいるではないか」、「どうすればいいのかといったところで、どうにもなるものでない、それなら、どうにでもなれ、かってにしろか」というものであった。これに対して同年の翌三月一五日付の同新聞に「現代を打開するの方途――農民氏に寄せて」との反論が寄せられた。その趣旨は「斯様な――他人の同情や恩恵に縋っ」たり、「猛烈な個人主義的思想の持主が多いから何時まで経っても農民は牛馬の如き……惨めな地位に置かれるのである、何故自ら起って……困る者同志が共同して事に当り以てお互に幸福にならんと努力しないのか?思うても見よ!何れの農村に於ても小作人は絶対多数を占むる……其の多数人の一致協力」で「たとえば、経済的福利を増進するために、信用組合、購買組合、販売組合、利用組合或いは小作人組合等の機関を組織し、又は自分達の意に従って活動せしむることも、政治的権限を伸長するため、又は利益を獲得するために」村議、県議、さらに代議士を「自分等の仲間から或は……意志を代表せしめる人々を選挙して、政治を行わしむることも、農会議員を同様に自分等の仲間から選出して農事の改良を図ることは決して困難ではない……今や町村会議員の改選を前にして、政治的に進出すべき絶好の機会……かくして農民は、自分自らの力に依って行詰まれる現状を打破するために努力すべき」であるというものであった(この投書者は「Y氏生」となっているが投書者が山崎淳であることを本人から確認した)。このような論理から大生村の山崎淳たちはまず大生村生産組合を創設した。このことが争議の最中にも全農県連等から「全農大生支部は……生産物の共同販売、消費物の共同買入、或は共同耕作等の訓練によりガッチリと鉄の様な一致協力の団結威力を持ち強固なる組織は全県下に類例を見ない」(「全農青年部茨城県連闘争ニュース」昭和六年八月)とか「全農大生支部は組織の強固なる点、消費組合運動と併合されている点等は県下に少い健実なる組合として知られている」(同前、昭和七年、月は欠)等と評価されるゆえんであったろう。さらにいえば、それゆえに全県的な意味をもつ大生争議の組織主体になりえたともいえよう。
 昭和六年から八年にわたって、地主、小作双方において激しく争われた大生争議の具体的な経過については、当事者といってよい菊池重作の『茨城農民運動史』、青木昭氏の『茨城県農業史』三巻における研究、さらに『茨城県史=市町村編Ⅱ』、中の「水海道市」の項に詳しいので詳細はそちらにゆずり、ここでは新しい資料及び明らかでなかった事実を中心に述べよう。