全農大生支部の結成

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大生村は小貝川と鬼怒川に挟まれた溜水地帯で明治期まで毎年のように水害に見舞われていた。明治四四年、地主たちによって水害に備えて小貝川堤防下に電力排水機が設置され、その後被害が減少したという。さらに大正期には排水路整備を中心とした耕地整理が地主層によって実施された。このような地主層の小作料を安定的に確保するための努力は、排水費用や耕地整理費の負担をもたらし、結局小作層に転嫁されることになる。小作層は耕地整理によって延歩がなくなり畦畔まで段別に加算され、生活は苦しくなるばかりであった。この村における耕地整理などによる地主層の負債と借金、小作層の小作料の増加による苦しみ、そしてその苦しみを社会的政治的に自覚した人びと動きによって、両者の激突は必至であったといってよい。おりしも恐慌がいよいよ深まっていった昭和六年一一月に大生村十花の山崎淳宅に全国農民組合大生支部の看板がかかげられた。すなわち前述の生産組合が改組されたのである(前掲、菊池著七六頁)、ただ組合側の資料によると昭和六年八月までにすでに「全農大生支部」が存在し、第一期闘争から秋期の「第二期闘争」に入ろうとしていることが現われている。すなわち八月までに五〇名の組合員を結集し、農会選挙でも代議員四名を確保し、同年五月の「立禁闘争週間」に組合員三〇名によるデモを行い、山崎喜一郎という地主宅と「地主の巣窟信用組合等をシュウゲキ」したこと、その時山崎淳、赤根新吉等の検挙、罰金二〇円を課せられたこと、「目下畑小作五割減」を地主につき付け「第二期闘争」に入ろうとしていること、などである(「全国農民組合青年部茨城県連闘争ニュース」、月日はないが昭和六年八月二四日の全国農民組合総本部の印がある)。こうした農民組合支部としての言動はあくまで組合内部で位置づけられていて、表面的に明確に農民組合支部として動き始めたのは昭和六年一一月の可能性が大であろう。
 

大生争議のアジビラ

 大生支部は一一月に耕地整理による実面積縮小にともなう小作料是正と小作料三割五分減の二つからなる要求書を地主に提出した。しかし、一二月になっても地主側から回答がなかったので組合側は地主と個別に交渉を行った。地主側も翌七年一月一一日「地主連の水海道を中心とする会である『むつみ会』が応援することになったので地主側は全農を徹底的にやっつけてしまう攻撃に出てきた」(一九三二年二月八日付大生支部争議団「争議ニュース」No1)等の動きもあったが、大崎集落以外の地主の大部分は小作料三割減に同意した(組合側はそれを「組合の要求通りで降参」と評した)。しかし、大崎集落の地主は頑強で、組合の水海道支部などの援助による「大衆動員」とそれを背景とする「一五名ずつ」の組合員による団交にも(一九三二年四月一五日付「全日農茨連ニュース」)屈せず小作料請求と土地返還を求める訴訟という手段をとるに至った。そこで茨城県連は前述のような五月一日のメーデーに集まったこの地域の無産大衆の力を背景に、翌五月二日に山崎淳、赤根豊作らを先頭に三十数名の組合員が大崎集落の渡辺浅吉宅にデモをした。渡辺は一反歩一〇円ずつ計二〇〇〇円の「争議資金」を各地主から集め、一方で「和解裁判」を行ったが、それが「決裂」していた。この五月二日午前七時頃から水海道警察署の特高巡査部長や村の駐在巡査の仲裁により農民四名と地主四、五名との交渉に入った。しかし午後三時半ごろに及び、渡辺は「立禁は断行する事を宣言し」懐に隠し持っていたピストルを赤根めがけて発射してしまった。外にいた組合員はいっせいに屋敷内に入り乱闘となり、渡辺は押えられた(一九三二年五月付「全農ニュース」No3)。負傷者は出なかったがこの事件は地主側に不利に作用し、水海道警察署長は、争議を解決しなければ渡辺を殺人未遂で逮捕するとしたために、地主側は三割減をのみ、その他の条件として三割減中、五割は昭和七、八年に納めること、六年以前の未納分は三~五年に分割して納めることが取り決められ、小作側有利に解決した。渡辺については始末書ですんだ。このような解決に対し組合側は「大生争議の勝は全日本の同志に大きなショックを与えた。あの戦法だ!あれで最後まで戦へ!!」とした(一九三二年六月付「全農茨連ニュース」No4)。渡辺は地主側を不利にした自責の念にかられ猟銃自殺を遂げてしまった。
 昭和七年の収穫期を前にして天候不順と恐慌による施肥料不足により予想される米収穫減、きつい小作料、並びに未納分等が重なり、闘争は再燃した。昭和七年七月に農民組合は三~七割、平均して四割七分の減額要求を地主につきつけた。関係する地主は一〇人であるが今度は前回と異なり体制を固めた。特に翌八年春には、一方で小作料支払い請求と土地明け渡し訴訟を提起し、他方で東京の暴力団員十数名を雇い入れて小作側を威嚇した。村内は殺気立った雰囲気に包まれた。二月一三日に地主側は、五日以内に定額小作料の納入がなされない場合には土地賃貸契約を即時解除する旨通告、二月一六日下妻裁判所は地主の訴えを受け入れ、組合員の耕作田約四町歩の立入禁止処分を決定した。その日に下妻裁判所執達吏が立入禁止の執行にやってきた。警察官六十数名と地主側が雇った暴力団員十数名がそれを守り、それに全県下から集まった三百数十名の組合側が対峙した。日本刀や木刀を持った暴力団と竹槍と農具を持った組合員との乱闘の中で三枚の田畑立入禁止処分が執行された。予想された地主側と小作側の激突に周辺の千数百名に及ぶ民衆が弁当持ちで押しかけたという。
 このような状況に対し水海道警察署長は地主側に対し執行を一時見合せるよう要請し、執達吏に帰ってもらい、地主、小作双方に解散を命じた。執行はこれで中止、延期になったが一〇日後の二月二六日、地主側のリーダーであった須藤長三郎宅で交渉が行われた。山崎の倉庫に保管していた小作米を売却して争議費用にあてていた組合側は「五割減より譲歩出来ない」として「二割減と立禁処分完了の耕地小作料は全額免除」という妥協案を受け入れず、平行線をたどった。翌二月二七日再び処分執行をめぐって緊張し、地主側は再び東京から暴力団を雇い、組合側は県内外から二〇〇人を越す応援を得ていた。警察は暴力団から日本刀を取り上げたが、地主側へ向う組合員を阻止し、竹槍をことごとく押収してしまった。
 県の小作官、水海道警察署長が仲介になって交渉が行われ、地主側から「小作料減免条件被執行処分地三枚の小作料解除」が提示されたが組合側はこれを拒んだ。やがて五月に一つの結末が訪れるが、この間組合側は児童全員の同盟休校を行ったり、また、茨城県連はもちろん、総本部から岡田宗司、黒田寿男等が応援にかけつけ、県下各支部からの米や野菜のカンパも続々と届けられた。さらにこの地域でも五箇村の横田新六郎、高島惣吉、長岡健一郎等の青年グループ、水海道労農党支部の古矢義雄、等々と連絡を密にしていた(菊池前掲七七~八二頁)。全会派の池田峰雄も支援していた。いわば全県的な地主、小作双方の総力を挙げた対決を示していた。三月一八日には全国農民組合第三回茨城県連合会が、午前一一時半から山崎淳宅で開かれた。水海道署他の約七〇名の警官が一人々々の身体検査をする等の警戒の中で代議員七〇名、傍聴者二〇〇名で進行したが、いく度かの「中止」命令と三名の検束者を出している(『東京朝日新聞』三月一九日付)。