以上のように地主、警察、暴力団、裁判所の総がかりの体制の中で争議は農民組合側の敗北に終りつつあった。その状況は農民の側にも組合幹部の側にも反映し、菊池重作は次のような手紙を全農関東出張所に送っていた。
大生争議に於ては重ね/゛\御指導していたゞきましたが、残念乍ら茨城に於ける組織の微弱さと我々
指導者が大争議に対する経験の乏さから争議を思う様に発展せしむる事が出来ず一時的手段として持込
んだ法廷戦がかえって組合員をして法律にたよらしむる次第となり争議団は戦闘化(せ)ず、今や田植を
目前にひかえて法廷戦は大体失敗に帰し養蚕の掃立農繁期等の為動員はきかず、争議はほとんど行きづ
まってしまいました。指導部としてはもはや行く可き道はテロ戦術の他なしとの見解のもとに決死的覚
悟をもって実行に移る事になりました。犠牲者を出す事もやむほ(ママ)へないと思…今後の一層の応援
を……(五月一一日付法政大学大原社会問題研究所資料)
組合内外の極度に困難な状況から、自暴自棄的といってよい形でとられた「テロ戦術」は必ずしも相手を殺傷するという意味でなく、現実に行われたのは山崎を先頭に小作層や県連書記等が三名の地主のリーダーになぐり込みをかけ、いずこともなく姿をくらますことであった。組合側はこれを「暁の逆襲」としている(一九三三年五月二八日付「茨連ニュース」No4)。しかし五月一三日早暁に多くの組合員(山崎は逃走)が逮捕された。逮捕されたものは少なくとも一二名にのぼっている(全農県連「大生争議暴圧調査表」五月二七日付)。三日目に主だった四人を残して釈放されたが、後に最高懲役四か月が言い渡された。山崎などがいない間に水海道警察署長飛田は残った組合幹部に農民組合を脱退すること、第三者の仲介者代表者の調停に対して絶対に異議なき事などの誓約書への押印を強要した。すでに菊池はかねて知りあいの水海道町眼科医鈴木春吉に調停を依頼していたが、警察側の第三者調停者の中に鈴木は入っていず、島崎という反動団体勤労党員が入っていたため、組合側は強く反対し、結局、増田兆吾県議と鈴木春吉が入った(前掲、菊池著八六頁)。警察は右のごとく「農民組合の脱退」とか鈴木春吉の仲裁申出に対し署長飛田が「余計なおせっかいだ。組合をツブさない中は、示談もクソもあるか」とか、「組合をぬけなけりゃ、全部ひっくくって何時まで経っても出さない」(一九三三年五月二八日付「茨連ニュース」No4)などの言動のごとく、農民組合そのものの解体を意図していたといってよい。
いっぽう、逃走中の山崎は「アジトより」として五月一九日に「吾々には同情のない警察、全部を入れてしまって強制示談をやられたのではすっかり惨敗だから何とか解決つく迄仕方ないからかくれている積りなのです。……食えない人達が少しばかり(約五百円)小作料をまけて貰い度いと云うのに五千円も暴力団の雇入費用につかっていじめようと云ふ地主連の不可解な気持の為に遂にこんな事になってしまったのです」との手記を寄せている(『水海道新聞』昭和八年七月五日付)。さらに鈴木春吉等の第三者調停は難航した。地主側が強固で三回も「悲観すべき不調の結果」(同前)となった。その背景には右翼暴力団に対する功労金が調達できない状況があり、結局、鈴木春吉が私財を投じて裁判の取り下げ等の費用を調達した。また小作側の全農脱退問題も立禁解除の際の保証金の不足、並びに生産組合結成時の費用その他、計二二〇円が山崎淳の借財となっており「組合を解散し山崎君と関係を絶つには、これ等の借財を清算しなければならぬ」ためこれも鈴木が負担した(同前)。
争議解決後鈴木春吉に送られた県知事からの感謝状
このような経過を経て次のような「解決条項」が六月六日大生村広大寺の「手打式」で承認された。組合はこの結果を「水海道町あたりの金持ち、地主の調停者どもはどんなに小作人を権力と懐柔で組合脱退までに至らしめたか」(一九三三年六月五日付「茨連ニュース」No5)と論評し、『水海道新聞』は鈴木、片見喜太郎(水海道町歯科医、大生村出身)、増田県議、警察署長、杉山大生村長の各調停者及び水海道署司法主任の動きをそれぞれ「激的(ママ)感激」をもって絶賛している(七月七日付)。調停案の内容についても、立禁解除、引き続き耕作、昭和七年小作料二割五分減、今後の小作料は小作人、村長、農会長等が土地賃貸価格等を勘案して適当に決めること、農民組合は解散すること(前掲、菊池著八六頁)としているが、組合側は相手方の訴訟取り下げ、昭和七年度小作料の二割五分減、強制執行数人、耕作の八反歩の半分から三分の二の地主への返還、小作料の標準を米の標準相場に一括で決めること、など(昭和七年六月三日付「土地と自由」、六月五日付「茨連ニュース」No5)としている。
かくして、三年にわたる大生争議は終結を迎えた。農民運動の歴史の中に位置づけるために、茨城における近代的農民運動の最初ともいわれている菅生争議と比べてみよう。まず、小作側は、菅生の時と異なり、当初から全国的全県的組織として位置づけられ、それゆえ、最初のうちは地主側を圧倒していたといってよく、組織化は前進していた。しかし地主側は、菅生と異なり当初こそ受身であったが、暴力団を雇い、対小作側の武器とした。さらに菅生の時は行政調停がかなり重要な役割を果たした。しかし大生の場合には、警察が当初から前面にでて、やがて第三者調停を強制し、さらに菅生ではなかった農民組合そのものゝ解体を意図し貫徹した。さらに昭和八年一二月に山崎等の活動家を治安維持法で再逮捕するという形でそれを徹底化した。さらに裁判所も菅生の時と異なり、地主寄りの態度を示した。こうしてみると菅生の場合、基本的には地主――小作の両当事者が問題解決の主体であった段階としての争議であったとすれば、大生の場合には、争議そのものに暴力団、警察、裁判所などの外部勢力や国家権力が露骨に介入した段階といえる。こうして、下からの自主的組織と地主間との闘争の段階は、その前提としての自主的組織そのものの存続が危うくされることによって終結に向かい、警察による強制調停的な「解決」が主流になっていく(一九三五年三月付「茨城県連合会活動報告」)。大生争議がそうした変化の媒介となった。
しかし体制側の対応は直接の強圧ばかりでない側面も有していた。産業組合などの地主、自作、小作をふくむ〝全農民化〟による組織化はその一つの方向である。実際、大生争議終結のあと「さしも県下に誇った全農組合もついに地盤崩解(ママ)しそれにかわる隣保扶助を根底とせる更生の実行機関として県農林課でその設立を奨励している農家組合組織の気運が(大生に)生まれるに至った」(『水海道新聞』昭和八年七月五日付)といわれる。しかも産業組合は大生村にみられるように無産層側もまた一つの大事な方針としていた。これまで述べた地主と小作双方の自主的あるいは国家の介入の下での「激突」の段階から、国や県の上からの側面をもつ産業組合を中心とする政策と、下からの動きが結合する段階が経済更生運動の時期である。
県内の小作争議の各段階を代表した菅生、大生両争議、特に後者の終結の直後の昭和九年に、同じくこの地域の五箇村が大生争議に小作側で関係した横田新六郎や長岡健一郎なども加わった経済更生運動の模範村となっていくのは、あまりに象徴的である。そしてやがて日中戦争を契機として、上からの方向に一元化されていくことになる。