中心的指導機関である経済更生委員会は第三三表のごとく村長(池田、自作地主、総所得村内一~二、政友会県議)、収入役、書記等役場吏員全員(助役はこの時欠員)、村議、農会長、産業組合長、養蚕実行組合員、小学校長等村内の有力者が網羅されている。それらのうちわけは、地主(自作地主が中心)七名、自作八名、小作六名で、政治的には政友会系はもちろん、反政友会系も入っており「挙村一致」である。
第33表 五箇村経済更生委員名簿(昭和9年) |
役 職 | 氏 名 | 所属地区 | 職 業 | 総所得 (円) | 資産の 状 況 (個) | 所 有 (反) | 経 営 (反) |
会 長 | 池田亮太郎 | 沖新田 | 村長・農会長産組長 | 1,711 | ― | 不明 | 19 |
生産部委員 | 吉原芳次郎 | 川 崎 | 村議・農会副会長 | 292 | 20 | 5 | 7 |
〃 | 石川家守 | 上 蛇 | 村議・養蚕実行組合長 | 357 | 25 | 不明 | 11 |
〃 | 倉持林助 | 福 二 | 農家組合長 | 664 | 350 | 不明 | 7 |
〃 | 大塚庄三郎 | 三坂新田 | 村議 | 259 | 40 | 1 | 21 |
〃 | 広瀬源太郎 | 沖新田 | 農業 | 555 | 170 | 31 | 18 |
〃 | 沢田豊寿 | 川 崎 | 村議 | 478 | 245 | 36 | 4 |
〃 | 冨田喜市 | 上 蛇 | 収入役・農会幹事 | 939 | 40 | 22 | 24 |
〃 | 星野武 | 上 蛇 | 農会書記 | ||||
社会部委員 | 佐藤博 | 小学校長 | 1,201 | ― | |||
〃 | 高島嘉平 | 上 蛇 | 農家組合長 | 849 | 550 | 43 | 8 |
〃 | 岩上辰次郎 | 福 二 | 村議・製瓦業 | 400 | ― | ||
〃 | 柴芝六 | 三坂新田 | 村議・農家組合長 | 1,296 | 250 | 45 | 10 |
〃 | 小野松之助 | 川 崎 | 村議・養蚕実行組合長 | 311 | 15 | 5 | 11 |
〃 | 長岡健一郎 | 沖新田 | 役場書記 | 17 | 19 | ||
経済部実行 計画委員 | 橋本碩二 | 上 蛇 | 村議・農家組合長 | 587 | 45 | 16 | 21 |
〃 | 吉原宇平 | 上 蛇 | 養蚕実行組合長 | 260 | 25 | 5 | 8 |
〃 | 箙志摩次郎 | 上 蛇 | 村議・養蚕実行組合長 | 607 | 360 | 44 | 7 |
〃 | 坂入長吉 | 福 二 | 村議・農家組合長 | 547 | 230 | 不明 | 17 |
〃 | 猪瀬肇 | 三坂新田 | 農家組合長・養蚕組合長 | 1,297 | 750 | 48 | 10 |
〃 | 角野映 | 川 崎 | 村議・養蚕組合長 | 329 | 5 | 6 | 14 |
〃 | 石川基 | 川 崎 | 農家組合長 | 313 | 180 | 不明 | 5 |
経済部実行 計画委員 | 星野益次 | 福 二 | 役場書記 | 504 | 35 | ||
〃 | 広瀬由三郎 | 農会技術員 |
註) | ○所有が「不明」となっている人は最低経営分の面積は所有している。 |
○空欄は不明。 | |
出典) | ○「五箇村経済更生委員会分科表」昭和9年8月6日(「全村更生」) |
○「昭和8年度戸数割賦課資力算定書」 | |
○「昭和4年度結城郡五箇村事務報告」(五箇村役場「事務報告綴」大正12年―昭和15年) | |
○「昭和4年度戸数割賦課資力算定書」(五箇村役場「昭和4年度会議書類綴」) | |
○「在村地主所有農地調」(五箇村役場「昭和21年度自作農関係綴」) | |
○「昭和19年度夏期調査票五箇村全区」 |
委員会のうち生産部は二毛作、桑園、肥料の改善、経済部は産業組合の拡充、利用促進、社会部は精神作興、生活改善などを課題とした。そして農家組合が「更生計画の実機関」として位置づけられた(「全村更生」)。また、村農会は「急激ナル経済的変動ニヨリ」「農家組合の大精神」である「隣保親善相互共助」の「美風ニ亀裂ヲ生ジ利己的ニ趨リ団体的協力の精神稀薄トナリ……農村……ノ重大危機ヲ招ク」ので「時代並ニ土地ニ順応スル部落的組織ノ下ニ精神ノ涵養ニ農事万般ノ改良ニ向ケテ総合的ニ指導セラレ」(五箇村農会「農会関係文書」昭和一〇年)と更生運動における農家組合を位置づけている。ここには恐慌下での青年運動や無産運動等の旧秩序に対する動向とその結果に対する危機感、並びにそれらを農家組合で改めて結合しようとする意図があらわれている。
昭和九年、五箇村では各部落ごとに農家組合が設置され、全村で一四組合ができる。事業としては主要農産物の販売、肥料の購買を行った。昭和一〇年この農家組合を単位として戸主会が組織され、農家組合長が戸主会長、組合員が戸主会員となる。戸主に限らず村の男子壮年は全部これに入り「壮年階級唯一の修養機関」とされている。また農家組合ごとに主婦会が組織され、農家組合長が主婦会長を兼ねている。各組合長を示したのが第三四表である。自小作の一人を除けば地主、自作がほとんどである。
第34表 農家組合長名簿(昭和10年) |
名 称 | 戸数 | 組合長 | 総所得 (円) | 資産の 状況 (個) | 所有 (反) | 経営 (反) |
下 古 敷農家組合 | 35 | 高島嘉平 | 849 | 550 | 43 | 8 |
古 敷 〃 | 35 | 橋本碩二 | 587 | 45 | 16 | 21 |
吉 野 〃 | 25 | 小貫正重 | 536 | 60 | 不明 | 11 |
上 蛇 〃 | 37 | 石川文治 | 155 | 90 | 9 | 12 |
福 二 下 〃 | 40 | 坂入長吉 | 547 | 230 | 不明 | 17 |
福 二 上 〃 | 47 | 倉持林助 | 664 | 350 | 不明 | 7 |
三坂新田上 〃 | 30 | 柴芝六 | 1,296 | 250 | 45 | 10 |
三坂新田中 〃 | 24 | 斎藤孝之助 | 1,261 | 780 | 78 | 10 |
三坂新田下 〃 | 24 | 猪瀬肇 | 1,297 | 750 | 48 | 10 |
沖 新 田 〃 | 35 | 横田恒雄 | 1,713 | 1,500 | 76 | 1 |
沖新田南 〃 | 20 | 市村貞蔵 | 515 | 150 | 不明 | 14 |
上 川 崎 〃 | 50 | 松田藤吉 | 2,790 | 2,500 | 195 | 8 |
中 川 崎 〃 | 40 | 大山政吉 | 1,288 | 400 | 73 | 12 |
下 川 崎 〃 | 20 | 石川基 | 313 | 180 | 不明 | 5 |
計 14 | 462 |
註) | ○所有が「不明」となっている人は最低経営分の面積は所有 |
出典) | ○「村勢調査」昭和10年(「全村更生」) ○他は「経済更生委員名簿」と同じ。 |
産業組合については三妻村と共同で、三妻村他一か村販売利用組合があったが、昭和一一年五月に米穀自治管理法が公布され、各町村単位に産業組合を作ることになったため、三妻村と分離して設立することになった。この米穀自治管理について「出来秋は、金の無いのを見こして商人が叩いたのに、今度は組合へ持っていけば、貯蔵保管してくれ、七割までは現金で貸してくれるし、保管料も政府が払ってくれる。非常に便利なものである」として「産業組合のない町村は一日も早くこれをつくら」ないと「いろ/\困難な問題がおきてくる」(『五箇村報』昭和一一年七月二一日付)とのべている。そして一二年六月には「五箇村信用購買販売組合は農家組合長各位を創立委員として、設立当初の役員になることに承諾を得て近く設立認可申請書を提出することになった」のである(同前、昭和一二年六月二五日付)。
また、昭和一〇年には、五箇村は全村教育指定町村に指定されている。全村教育とは全村の精神教化運動によって全村更生運動の目的遂行に寄与しようとするものである。具体的には、部落常会(例会又は懇談会)の実施等によって支えられるものである。こうした経緯の中で「全村更生会」が組織される。翌昭和一一年には、行政部が新設され、教化、生産、行政の三部の代表一四名により中央部が組織される。運動の実態は、二毛作促進、共同販売、共同購入、共同集荷所の設置等経営の「多角化」「合理化」であり、時間の励行、台所の改善、農村栄養の改善、冠婚葬祭費の節約等、生活の近代化、合理化である(「全村更生」)。それらは各部落ごとの懇談会や、小学校児童をまきこんで全村で熱情的に行われる(この時期の『村報』など)。その成果は全国的な経済の復調もあるが、昭和一一年には一戸平均負債額は「約十分の一」(『村報』昭和一一年九月一七日付)となり「二毛作田百余町歩」(同前、昭和一二年九月二八日付)ができる。さらに一戸当り農業収入は九、一〇、一一年と増加する(「各年度事務報告書」)。昭和一一年にこの村は経済更生特別指定村に選ばれ、一層運動は展開する。この運動の構成は、前に述べたように中小地主、自作、自小作、小作等のあらゆる勢力が参加した「挙村一致」であり、その中でもかつて青年運動のリーダーであった長岡や岡田は中央部員専任職員としてこの運動の実質的な計画、指導を担っていた。この段階での産業組合や農家組合を通じてその下からの共同化、自主的販売統制などは、農民運動における協同組合方針と矛盾しなかったといってよい。しかもこの間、村長は池田から箙(昭和一〇年夏から昭和一二年一月)さらに、村一番の地主松田藤吉(昭和一二年四月から昭和一三年八月)とめまぐるしく替ったが、それらの交替はいずれも「政争の犠牲」ともいわれた(『村報』)。すなわち「挙村一致」の形の内部では政友会派対民政党系、無産派との、あるいは地主対中小地主、自作、自小作、小作等の対立、すなわち古い勢力と新しい勢力との対立が進行していったといってよい。
(図)
ここまでが、この村の経済更生運動前期だとすれば、昭和一二年(一九三七)七月の日中戦争開始が画期となって後期に入ると考えられる。二毛作促進、共同利用など農業経営の合理化や「生活改善」などの運動や機関は昭和一二年以降も続けられるが、日中戦争を画期に全体として戦時統制色が強まる。「軍需品生産開発」、「長期戦に対応する労力援護計画」、「長期戦に於ける経済統制は産業組合によって行はれる」、「産業組合に入っていない人は今後販売に購買に差別待遇される事になった」(『村報』昭和一三年八月二六日付)と述べられるごとく、産業組合が戦時統制の機関に転化していく。さらに村報も村の更生運動の機関紙から『皇軍慰問号』(昭和一二年一一月号)となり、主婦、児童、女子青年団などの「銃後援護事業」「整列登校の開始」などが掲載されるようになっていく。ちょうどそのころ、運動の構成においても変化があらわれる。すなわち、それまでの不安定な構成を象徴するような村長の頻繁な交替の後、昭和一三年再び村長に就任したのは政友会系の中心的存在であった池田亮太郎であった。結果からみるならば主流派政友会派対民政党系及び無産派との対抗は、その政策方向と内容、並びにその政治配置から、もし日中戦争による中断がなされない場合には、既成秩序を克服する可能性を有していた。しかし、日中戦争はそれを中断させ、既成勢力と非既成勢力の併存を可能としたのである。そしてそれを体制化したものが大政翼賛体制であった。昭和一三年六月の県下を襲った水害は、水海道地区はもちろん、五箇村にもじん大な被害を与えた。これも相まって池田は村長となり、昭和二二年、長岡健一郎が村長となるまで活躍した。