南茨青年同盟

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南茨青年同盟が水海道町にいつつくられたかは厳密にはわからないが、普選第一回町議選挙(昭和四年)に増田兆五を推した町内の青年たちを中心に、その前後につくられたという(久保村市男氏、大藤好貞氏談、一九七九年一一月一日、以後断らない限り、これによる)。彼らは衆院選茨城県第三区内の町村に存在しはじめた熱狂的といってもよい風見章の支持者たち――「風見宗」の水海道町におけるあり方を示している。風見が普選第一回衆院選(昭和三年)で落選した後、神林鎮男が役場をやめて風見の地元秘書となってから組織化はすすんだ。風見が当選した昭和五年二月の衆院選では風見の町の選挙母体になってトラック、自転車などによる「ビラ張り等、何でもやった」。昭和六年、風見章の支持者増田兆五が県議となり、やがて前にみた昭和八年の町会議員選挙で、神林が南茨青年同盟推薦により町議となった。風見(衆院)―増田(県議)―神林(町議)とつながったといってよい。
 南茨青年同盟の構成員は当初は一五、六名であったがやがて五〇名前後(四七名ともいわれる)となり、顧問は飯田憲之助(県議 豊岡村長、販売利用組合水海道農業倉庫副理事長、地主で企業家)、増田兆五、秋場勇助の三名である。構成員の職業は第三五表のとおりである。
 
第35表 南茨青年同盟の職業構成
新聞記者3名つり道具店1名
理髪店1名電気屋1名
米 商1名農 会1名
材木商1名写真店1名
牛乳店1名菓子屋3名
魚 屋1名紙 屋1名
料理店1名化粧品店1名
銀行員2名自転車屋1名
東京電力1名竹細工1名
雑貨商5名農 業3名
印刷業1名家具店1名
大 工1名洋服店1名
註)この表は久保村氏の聞きとり調査をもとに筆者が作成した。


 
 この構成からいえることは、水海道町の中でも中小、あるいは小規模の商店主が大部分であり、農民、さらに竹細工や大工などの職人層も入っている。またこの同盟のリーダーである久保村市男は大正期に長野県からこの町に移って酒を中心とする雑貨店の経営を始めたように、老舗でなく、いわば新興勢力である。このような階層はこれまでは町において社会的にも政治的にも疎外されていたか、重要な位置を占めえなかったことは明らかであろう。これらの商店主や農民の階層は小規模ではあっても、財産をもっている点で旧中間層に匹敵する人々である。その他に注目すべきは、新聞記者三名、銀行員二名、東電社員、農会吏員各一名の、ホワイトカラー層いわば新中間層が、相当の比率をもっていることである。
 同盟の構成員が町で経済的にどの位置に属していたかの目安として昭和一六年度の戸数割等級表によってみてみると三一等級から五〇等級までが一一人となっている。すなわち、新、旧中間層の中下層部分といってよいであろう。彼らは風見の主張と同様に「既成勢力の打破」を唱え、血盟団事件、五・一五事件の起ったころ、昭和七、八年にはそろいのワイシャツ、紺のバンド、胸に「南茨」の徽章をつけた「ユニフォーム」をつけ、畳八畳程の旗を作り、町を行進したという。そして東京の国民同盟の事務所で党首安達謙蔵の話などを聞いたこともあった。町の中では「唯一政治的に動く団体」になり、町長、助役、町議などに対し声高に意見を主張することも日常的活動として行ったという。こうした動向が他の人々に脅威を与えたのも事実であった。風見は昭和六年には「協力内閣運動」を行った安達謙蔵、中野正剛らとともに民政党を脱党し、翌昭和七年一二月には国民同盟に参加している。その年二月の総選挙で風見は、国民生活の不安を除け、町村教育費の全額国庫負担、肥料の国営生産の主張、農村問題の解決は満蒙問題にありと政策を論じ、「国家あっての政党であるから、邦家の重大時局に直面してはこれを匡救(きょうきゅう)する憂国主義によって(民政党の)党籍を離脱したのである。特に日本の生存のために満蒙を活かして利用するのが絶対だ。その利用には内地満蒙を一丸とした計画経営を実行するほかはない。日本の行く道はこの一つのみといって」いた(『水海道新聞』昭和七年二月一七日付)。以後、日本軍の熱河作戦、国際連盟脱退(昭和八年)、華北への進出(昭和一〇年)、ロンドン軍縮会議脱退(昭和一一年)と、日本は中国侵略と国際的孤立化の道をすすみ、他方、国内では神兵隊事件(昭和八年)、陸軍パンフレット出版(昭和九年)、天皇機関説排撃運動(昭和一〇年)、二・二六事件(昭和一一年)とファッショ化の動きが進行した。
 

ユニフォーム姿の同盟員

 風見は昭和一一年一二月には国民同盟からも脱退し、近衛文麿の側近になっていく。そして翌一二年六月の第一次近衛内閣の内閣書記官長となった。そして一月後の七月には蘆溝橋事件から、本格的な日中戦争に突入する。風見が書記官長となった時、南茨青年同盟は前述のそろいのユニフォームで靖国神社に参拝したという。この前後は五・一五事件以来の一連のファッショ運動に風見の「知り合い」が加わっていたこともあって、同盟の様々な集まりには常に警察が「連絡」していたという。また、日中戦争勃発前後には、小学校の講堂で婦人団体や他の地域の団体などとともに「暴支膺懲県民大会」などを二度にわたって開いたり、出征兵士の見送りを行った。風見が書記官長になったころは同盟も盛況となり、同盟加入の申し込みが増え、加入の「審査」をした。その基準は「常日頃の行動から同志としてふさわしいかどうか」であり、既存の構成員の「満場一致で承認」することになっていた。このような同盟の「勢」は他の人々に、彼らに「逆らったらたまらない、反対したいものは黙っていた方がよいということで表面にださない」雰囲気も生まれるほどだったという。
 いずれにしてもここには、水海道町における新、旧中間層の特に中下層の動きが、町の政治の無視しえぬ一つの単位として現われたことを示している。農村部では青年団や農会、産業組合といった既存の団体、あるいは行政と深くつながっている既存組織に中間層も依拠して自らを政治的に表現したのに対し、町部では、行政とは独立の公然たる政治組織として現われた点で異なっていた。