戦時体制と農民運動の変容

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同じ時期に農村では、農村経済更生運動が行われ、農村全体の組織化が進んでいた。そうした傾向は昭和一二年(一九三七)七月に開始された日中戦争を境に上からの戦時体制づくりの中で一層進展していった。またそれにつれて農民運動も性格を変えつつあった。
 『水海道新聞』(昭和一三年九月二〇日付)は、当時の茨城における農民運動について、「三様」の流れをのべている。第一は「日本農民組合」で、これまで「農民階級闘争の主体で…中略…茨城に於て記録的進出をしたが、戦時体制の強化は漸次その本質の変化を余儀なくせしむるにいたり衰退の途を辿って」いること、さらに「最近の傷手(ママ)では菊池(重作)連合会長の人(民)戦(線)運動関係に基く検挙である」こと、「しかしながら組織に於てその量に於て依然として茨城農民運動の第一に位すること、一八〇度の転換、日本大衆党の動向によって今後の運命が約束される」(傍点―引用者)と。右の「転換」が戦時体制に添う形であることは明らかであろう。第二は「日本農民連盟」である。これは昭和一三年一月、長野県で「日本農民組合右翼派」と「日本主義的農民団体」が合流して結成されたものである。茨城では「愛郷会の一部有志と日本主義の一部の人々によって全県内に大体の連繫は形成された」。第三が「日本農村革新協議会」である。これは「現時、日本の情勢下に於ては最も現実的であり具体的である。その出発が本春の産業組合合同大会席上」での第一次近衛内閣の有馬頼寧農相の「率直大胆なる現状打破農村政治運動の示唆に基く事実より明らかである」こと、「本月中に地方組織を形づくり十月に合同結成をやると意気込んでいる」、「その主張が産業組合の要求する政策との一致点が多く、その人的先鋒も産業組合系が多い関係上必然的に各地方に於ても産業組合の革新的人物によって結成されるものと予測され」る、「本県に於ては」風見章内閣書記官長の関係もあり「近来積極的動きを見せ、過般南茨会館に本県に於ける準備会結成をかねての研究会が開かれ、一歩現実的に前進した形である、産業組合を組織対象としているため公式的組織は順調に進み従って公称数は他を圧し華々しい陣容を築くかも知れない」、「三様の運動中、最も注目すべきものであろう」といわれた。
 以上の「農民運動」の三つの動きはいずれもこの地域に強い関連をもつものばかりである。無産運動の戦時体制への同調的転換、日本主義の農民組織化、さらに産業組合を基盤とする現内閣と結びついた「運動」、といずれも戦時体制下の農民運動である。特に第三番目のものは、国家協同組合主義、あるいは集権的職能国家論、ともいえるものである。こうした動きは、昭和一三年四月に成立した「国家総動員法」の下で単に農村ばかりでなく、都市において、あるいは商工業においても職能別に組織し、統制する方向に見合ったものであった。
 このような動きは地元の農村部における風見章の基盤になったが、同様の動きは真壁郡農会長、県議などを経て、昭和一二年の衆院選に昭和会系(政友会から分裂した)として立候補当選した赤城宗徳の基盤とも重なっていた。