赤城はその選挙公報で「農村自体の組織をつくって、団結して都会資本に対抗すること」、「こゝに産業組合運動の本然の目的があり」、農産物価の引き上げと肥料等を安く購入すること、それが自給自足時代から貨幣経済の組織に移っていく時期の農村問題の解決の道であると述べている(『私の履歴書』四八頁、日本経済新聞社、昭和四八年)。この選挙では風見が一位で赤城が二位であった。さらに赤城は昭和一四年になると次のように主張している。すなわちこれまで、農村問題の中心は、一つは小作問題、他の一つは特に自作農の困窮のもとで売るものが安く買うものが高い鋏状価格の問題があった、すなわち都市と農村の対立が農村問題の枢軸であるが、「支那事変に至って、凡て、之等の問題は一応、揚棄されて、増産国策に邁進、ということが農村問題の枢軸に転化しはした」、そのためには「土地問題の解決に俟たねば、増産国策も、農村問題も、延いては支那事変の円滑処理にも支障を来す」として「耕作者本位の土地制度改革」、具体的には「土地の国有」などを例にあげている(『水海道新聞』昭和一四年一一月五日付)。さらに「土地と米と肥料の三つを相当程度国家管理に移すべきこと」を主張している(同前、一二月二〇日付)。
このような赤城に共鳴した人々が、昭和一四年一一月一八日に、水海道町の『水海道新聞』社を事務所としてつくったのが「茨城建設者同盟」であり(『水海道新聞』昭和一四年一一月二八日付)、それは実質上赤城の選挙母体の一つでもあったという(昭和五四年八月二六日、古谷明氏談)。理事は菊池重作、成島一郎(小野川)、木村信吉(大村)、古谷明(十和)、山崎淳、菱沼弥右(福岡)、寺神戸誠一(美並)、木村(作岡)であり会員の範囲は筑波、真壁、新治諸郡に広がっていた。五箇村の長岡健一郎なども会員として参加している。さらに村段階の産業組合青年連盟(産組の活動的な青年や産組専従者の集まり)のメンバーたちが構成員であり(その点ではこの時点での長岡や山崎もその資格をもっていた)、その系列で後の昭和一五年二月一八日には石岡町に「新農村建設研究会」や同年二月一七日に谷原村にも「農村問題講演会」などが赤城を顧問としてつくられている(同前、昭和一五年三月二〇日付)。そして当時の県議の木村孫三郎(真壁郡大村、肥料商、農)や小泉卓(筑波町、県議、茨城県産青連理事長)などが指導者として参加している。協力団体として「日本国体研究所」、企画院山崎経済研究所、「大日本防共同志会」などのメンバーがこの同盟の発会式や講演会の時、講師などをつとめている(同前)。
菊池や山崎淳などかつての無産運動のリーダーが参加しているのは「元警保局に於て理論家として著名な緋田工氏の主宰する日本団体研究所の指導」(同前、昭和一四年一〇月二〇日付)があったからだという。もちろん、そうした強制の側面(やがて山崎は太平洋戦争中にボルネオなどに送られる)と同時に産青連関係からの参加があったであろう。同じ衆院選挙第三区で、しかも支持基盤が、在村地主、自作、自小作層で産業組合関係者ということで、風見章を支持する勢力と「茨城建設者同盟」とは一定の対立があったという(前掲、古谷明氏談)。そして赤城の水海道町における得票は昭和一二年三一票から、昭和一七年の翼賛選挙時には風見が引退したこともあって一八七票と約六倍に、五箇村では同じく八票から一一七票と約一五倍に増加している。