泥沼化した日中戦争の打開と南方進出のための全国民的な国防国家を組織することを目標とした大政翼賛会がつくられたのは昭和一五年(一九四〇)一〇月一二日であった。そのための政界再編成としてそれまでの全政党が解党した。他方、国民の再組織化として、あらゆる業界団体が職能別に組織されて国家の統制下に入り、他方、地域的には中央協力会議――道府県協力会議――市区町村協力会議(市区町村常会)、さらに最末端で、町内会・部落会という上意下達の組織に国民は編成されることになった。茨城県での発会式は昭和一五年一二月一二日に行われたが、各段階の衆院第三区、結城郡、あるいは水海道町周辺のメンバーを見てみると、まずこの時の内閣の司法大臣に風見章、中央協力会議の県代表の一人に赤城宗徳、同県顧問に飯田憲之助及び赤城宗徳、県支部理事に落合寛茂(大花羽村僧侶)、小泉卓(県議、県産青連理事長)、結城郡支部長に小篠雄二郎(県議、結城町長、風見章系)(『いはらき』昭和一五年一二月八日付)、翼賛会結城郡支部理事には、郡農会長、村長、僧侶、在郷軍人分会長、など一〇人であるが、このうち水海道周辺では神林鎮男(三七歳)、秋場勇助(四四歳、大生村村長)、関根隆一郎(四六歳、絹川村村長)などであり、北相馬郡では寺田啓三郎菅生村長、などである(同前、昭和一五年一二月二九日付)。こうしてみると結城郡周辺のメンバーは、大部分が、小泉等の赤城宗徳系と、小篠等の風見章系であることがわかる。さらに水海道周辺では、飯田憲之助、落合、秋場、神林と各段階のメンバーは風見系であり、中でも、飯田、秋場は南茨青年同盟の顧問であり、神林はその同盟の地元のトップリーダーの一人であった。このように大政翼賛会メンバーの配置にあらわれた政治的傾向は、前に述べた〝穏健中立な挙町体制〟とは明らかに異なるものであり、特にその〝挙町体制〟に参加しなかった南茨青年同盟の進出とその町段階における帰趨は注目に価しよう。