戦時下の水海道の政治

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昭和一六年一二月八日、日本は太平洋戦争に突入した。太平洋戦争開戦は前に述べた水海道町の政治的均衡状態を変化させた。すなわち、中堅及びそれ以下の商工階層及び、新中間層を主体とし、それを政治的に代表する南茨青年同盟系の町の体制における著しい進出である。既にその傾向は大政翼賛会が形成される過程でも現われていた。同盟は大政翼賛会結成時に諸政党にならって「解散」した(久保村市男氏談)が大政翼賛会への参加や配給等で町の「資産家階級」は同盟系に相当圧迫をうけたという(前掲古谷明氏談、五木田伊衛門氏談)。
 水海道町においては、神林鎮男が翼賛会結城郡支部理事、昭和一七年に大政翼賛体制の実働部隊として役割を果たした町翼賛壮年団長、そして同年九月に町助役、そして翌一八年二月に「時局柄寸時も猶予出来ない事情により、直ちに町会は満場一致で……(神林を)推薦決定」町長となる。神林が助役になったあと翼壮団長は一時草間静になったが、半年後の昭和一八年三月には、南茨青年同盟の代表者であった久保村市男が就任した(『水海道町ふるさとだより』第一号、昭和一八年六月二〇日)。戦時体制の中で最も重要な組織である「水海道町銃後奉公会」の会長及び、「四月中旬すっかり新しい姿を整え」た警防団長にも神林が町長就任とともに兼務した。銃後奉公会の各地区ごと一名(宝町のみ二名)計一三名の中にも同盟員であったもの三名が入っている(同前『ふるさとだより』)。神林が町長をやめる昭和一九年にも、町農会長武藤久兵衛、同産業組合長鈴木吉太郎、県議、方面委員長鈴木春吉という名望家たちが町の役職についているが(昭和一九年度「水海道町事務報告書」)、町長(翼賛会町支部長)、翼壮、銃後奉公会という戦時体制の主要な機関が南茨青年同盟系で占められていることは、町政のイニシアティブの所在を物語っているといえよう。それは同時に「資産階級」への圧迫という事態とも併せて考えれば、昭和一四年ごろまでの町の政治的均衡は、明らかに中間層以下の方に傾いたといってよい。しかも、重要なことは、風見章が、昭和一七年の翼賛選挙といわれた衆議院選挙時に、「ゾルゲ事件」などで「失脚」した以後に、この町で右のような傾向が全面化したことである。ここには町段階での動きが衆議院や政府レベルの動きとは自立したかたちで認められる。
 さてこのような水海道町の体制の中でどのようなことがなされたであろうか。翼賛壮年団は「聖戦下莫大な軍需電力をまめに電燈スイッチをひねることによって産み出そう」として「電力節約」運動を展開、その結果「三分の一の電線が不要」となり、昭和一八年六月にはその電線を取りはずす成果をあげた。また一戸当り一三貫という「県下第一の成績」をあげた「銅鉄回収」運動などを行った。昭和一七年から結成されて炭鉱に奉仕をしている「六ケ隊」による「水海道勤労報国隊」や「やがて女子勤労報国隊の第二班」も出かける予定の動きもあった。また、一八年四月上旬には銃後奉公会が婦人常会を各町内会ごとに召集、警察署長、銃後奉公会部長等出席の上、「時局と家庭生活の重要性と注意事項をお話して銃後家庭の鉄壁の守り」を期した。さらに出征軍人農村家族留守宅へ「何千人の労力奉仕者」が出動、食糧増産に努めた。また、この年五月の「常会事項を実践して建艦資金を募集」し「応募者多」かったという。また、水海道国民学校では、「殉国忠霊録と戦地からのお便り」をおさめた「忠霊室」がつくられたこと、「報国貯金」の推進、日向葵、麻、ヒマ、南瓜などを、「報国農場」で育てる「増産」運動、「衣料繊維増産のために桑皮の剝ぎとり」をしたり、出征軍人留守宅への麦刈りの手伝いなどをやったという(同前『ふるさとだより』)。以上のような町内の行動は町の常会で「協議」されて行われた(たとえば「第二二回水海道常会協議事項」、昭和一九年度「水海道町庶務綴」、昭和一九年九月二二日)。その意味では大政翼賛会体制は町部では不可欠な機能を果たしていることを物語っている。
 

戦時下の援農奉仕

 その他に町の動向で注目すべきは、この間に工場誘致がなされたことである。昭和一八年から一九年にかけて「東晃製機株式会社分工場」が字峰下に誘致された。五人以上の職工を持つ工場数は昭和一七年一四、同一八年一八、同一九年一八、同二〇年二一と増加し、営業税も一七年六九四六円、一八年一万二八二三円、一九年一万三三一六円と増え、人口も一七年七八三三人、一八年七七三八人、一九年七九三七人、二〇年八六七二人と増加している(昭和一七、一八、一九年「水海道町事務報告書」)。
 こうした町の体制は、昭和一九年八月にまた一つの転換を迎える。以前菁莪学館のあった町有地を疎開などのため国有地に移管したことをめぐって、神林町長が責任をとって辞任(様々な経緯を経て町有地に戻された)したあと、町長についたのは、従来からの名望家鈴木吉太郎であった。鈴木は昭和二二年まで町長として在職した。この間、昭和二〇年六月には、男子一五歳から二〇歳、女子一七歳から四〇歳までのすべての国民を決戦のために国民義勇隊に組織する動きが進行していったが、やがて昭和二〇年(一九四五)八月一五日の敗戦を迎える。
 この戦争で、この地域から出征し戦死した人々の数は一二一四人の多数にのぼる(第三六表)。
 
第36表 市内地区別戦没者数
旧水海道地区238人
豊 岡123 
菅 原140 
三 妻134 
五 箇113 
大 生126 
大花羽55 
坂 手88 
菅 生135 
内守谷62 
1,214 
昭和59 水海道市役所福祉事務所調査


 
 かくして、敗戦となり、占領政策が行われた。この中で戦前に育ち、あるいは弾圧され、あるいは戦時体制の中で潜在的に育っていた様々な民主主義の要素がいっせいに、多様な形で自主的な運動や、団体として生まれていった。歴史に規定された、新しい民主主義の時代がおとずれ、つくられていく。