御城実科高等女学校

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御城(みじょう)とは水海道町内に残る古い地名であるが、この名前は現在、水海道第二高校の学園祭や同窓会館に使われており、いわば同校のシンボル・ネームとして残っている。同校の歴史は明治四四年(一九一一)、水海道町ほか六か村組合高等小学校に、修業年限二年の実科高等女学校が併設されたことに始まっている。この併設高女は大正四年、母体であった組合立高等小学校が解散となり、各町、村の尋常小学校の高等科へと組織替えになるに及んで、修業年限三年の独立の実科高女となった。そして七年後の大正一一年、水戸、土浦につぐ県下で三番目の県立水海道高等女学校に昇格し、その翌年には現在地に校舎を移転する。同校はこの独立から県立昇格までの七年間の校名を、水海道町外六か村組合立御城実科高等女学校と称していた。つまり御城という名前と関わりのあったのは同校の長い歴史からみれば七年間の、また校舎が置かれた併設高女時代から数えても一二年間という期間だった。しかし短い時期ではあったが、この「御城」あるいは「実科」時代は、同校の歴史の上で、地域の女子教育に対する時代的な要請と、それを受けた一町六か村を中心とした組合立学校の維持、運営、さらに地域のまとまりを示す県立への昇格運動の高まりという、きわめて重要な、意義深い時代であった。
 明治後期になると、女子中等教育に対する要望は次第に高まり、明治末から大正期にかけて公立、私立の教育機関が増加する。大正二年には結城町に女子技芸学校が、同三年には古河町に女子技芸学校がいずれも町立で設立された。水海道町内にはまた、明治末期に裁縫学校も一時期設立された。
 

御城実科高女校舎

 実科高女の生徒定員は一学年五〇名であり、併設当初は人気の高かったことを証明して四八名が入学した。独立の実科高女になる際に修業年限が一年延長されると同時に、入学資格も高等科一年修了と定められた。従ってそれまで小学校を卒業して即入学したとすれば二年の修業年限を加えて計八年であったものが、前後一年ずつ伸びて全部で一〇年となった。しかし寄宿舎が設けられ、歩いては通えない遠隔地からの生徒の入学も可能となった。
 併設当時の教職員は兼任校長(古矢喜太郎)のほか、書記、教諭、助教諭、助教諭心得、講師の計五名であった。それが大正一〇年の「学校一覧表」によれば専任校長(修身、数学担当の塚越佐平)、教諭四名(家事、作法、裁縫担当の小山たけの、国語担当の枝川留吉、地理、数学、理科、図画、唱歌、体操担当の秋葉源彦、裁縫、編物、作法担当の加藤まさ)、教諭心得兼舎監心得一名、書記兼助教諭心得(農業)一名、講師(家事)一名(学校医兼務の松田亘)という顔ぶれになり、やや拡充されている。
 御城実科高等女学校の運営は組合長である水海道町長(鈴木吉太郎)を中心とした、組合会議(水海道町四、五名、各村一、二名)があたった。同校の大正一〇年における経費は八三〇〇円で、そのうち人件費にあたる俸給が六三八〇円、旅費等の雑給六六五円であった。それに対する収入は、生徒授業料(組合内生徒月額一円八〇銭、組合外同二円二〇銭)および組合町村の分担金であった。組合内生徒数は七六人、組合外は七八人で授業料は年間一一か月分として計算すると、授業料収入は三千三百九十余円で経費の約四一パーセントにあたった。
 設立当初の同校の歴史の中で忘れられない出来事として、大正三年四月、小貝川の増水により、大生村、十和村の渡船組合の渡し船が転覆し、若い女生徒八名を含む一〇人が水に呑まれて死亡したことである。この事件を契機に小貝川に架橋すべしとの運動が起こり、大正五年に木橋が完成したが、小貝川べりに建つ「横死精霊供養塔」がこの悲惨な事件を今日に伝えている。