大正八年(一九一九)一二月、水海道町の大串郁三郎、増田兆五、小倉邦一郎外八二名が連なり、茨城県立水海道高等女学校設立期成同盟会が結成され、当時の県会議長(飯村忠七)に陳情書を提出した。これは第一次世界大戦直後の経済界の好況と、折から「大正デモクラシー」といわれた社会全体の文化や教育に対する意識の昻揚を反映して当地方における女子中等教育充実への熱意となって現われたものであった。
この「陳情書」によれば、茨城県には女子高等普通教育機関として水戸、土浦の二校があるのみで、これを受けさせようとすれば「笈ヲ都門ニ負ヒ或ハ他郷ニ遊学」させざるを得ず、そうする者が多くなっている現状では、県においても、県西南の地に一校を増設する意向があると聞きたいへん結構なことだと思っていた所、その案は覆されて、水戸、土浦二校の学級増として県会に提案された、おそらく県費の膨大化のため、「枉(マ)ゲテ一時ノ急ヲ救ハントスル」ためであると思われるが、この際賢明な議長閣下以下県会議員において、県民の意を尊重して欲しい、というものであった。「陳情書」はさらに加えて、女子高等普通教育機関増設の意義について、その時期は今が最適だとしている。その理由を、当地方が数年来の豊作に加えて農産物一般が価格昻騰して農家が潤っている、その余力を有効に使うため為政者は「子女教育ノ気風ヲシテイヤガ上ニモ振興セシ所以」である、国家の隆昌は其の源が家庭にある、その家庭の在り方は主婦の人格、教育の如何にかかっているのは明らかである、「人物秀優、思想健実而モ時代ヲ解セルノ人ヲ要求スルヤ切ナリ」と、女子教育の重要性を強調した。そして県西南の中では水海道の地が最適である、水海道は猿島、北相馬、筑波、結城の中心地として、付近町村の人口が著しく増加し、遊学する子女も年々多くなっているのが、その理由だとした。
このように県立高女一校増設の動きに応じた「陳情」運動であったが、大正九年開校の運びには至らなかった。ただこの運動も、水海道の地に高等女学校の設置を訴えていたが、実際に現存する組合立の実科高女を昇格させて欲しいとはしていない。
ところが、大正一〇年、一町六か村の町村長から守屋県知事宛に提出された「請願書」では、県下における高等女学校一校増設の実現という情勢を踏まえて、水海道を最適地とする前回同様の趣旨の請願を行っている。そしてその中で、今度は組合立高女の存在について、「教育思想ノ高調ニ誘ハレ応急策トシテ先年水海道町外六カ村組合立御城実科高等女学校ヲ設立シ以テ今日ニ至リシ」とし、さらに「教育思想ノ勃興ハ同校ヲシテ入学希望者ヲ尽ク収容スルコト能ハサラシムルニ至レリ故ヲ以テ水海道町及附近町村ヨリ笈ヲ他校ニ負フモノ年々百余名ノ多キニ上レリ……」と述べ、御城実科高女の役割を認めつつも、これでは不充分なので「新設ノ高等女学校」を水海道に建設するよう要望している。しかし同年八月二日付で再び一町六か村町村長名で知事宛に出された「追願書」には、「今般我組合立実科高等女学校ヲシテ県ニ移管シ以テ大正十一年度県費予算計上シ以テ常南ニ於ケル女子教育ノ完成ヲ計ランコトヲ熱望スル所以」と、明確に実科高女の昇格という具体案を述べている。そして昇格、移管された上は、「現在ノ校舎器具機械其他校舎敷地千三百六十一坪ヲ提供致候」としてさらに具体的な条件を出して県立移管を迫っている。
この移管運動はここに至って漸く実現したわけであるが、運動の中心メンバーとなったのは組合を構成した町、村長はもちろん、「寝食を忘れて百方奔走し、之れが為の私財を抛つこと鮮少にあらず」と評された青木常吉や、野々村岩吉、多くの町内有力者の面々が顔を揃えていたのであった。