水海道町には大正一五年四月、男子の菁莪学館にならぶ女子の私立学校が設立された。設立者は大生村相野谷出身の桜井きちのと、彼女の夫三郎であった。同校は「女子ニ須要ナル知識、技能ヲ授ケ徳性ヲ涵養シ役立ツ婦人ヲ造就スル」という女子の一般教養と実技の教育を目的に掲げ、三年の本科(二一〇人)と研究科(七〇人)が置かれた。
本科においては、国語、数学、外国語などの普通科目のほか、家事、裁縫、手芸の科目、二年からは商業、簿記が加えられた。家事としては、衣食住、養老及看護法、割烹、育児法、家計簿記があり、裁縫としては二年からミシン使用法の授業が加えられた。研究科は一週三六時間のうち裁縫の時間が三三時間という、裁縫専門課程であった。
設立者の桜井きちのは組合立高等小学校卒業後、町内にあった私立の裁縫女学校に学び(二年間)、ついで大正六年から東京の私立高等裁縫女学校速成部(六か月)、さらに東京帝国女子割烹学校日本料理科(一か月)に学んで、女子教育に必要な知識を吸収した。彼女は大正七年から一五年三月まで、水海道町において裁縫所を開設し、こうした経験を基にして、私立学校の発足となった。
夫の三郎(旧姓戸塚)は水海道中学から茨城県立師範学校の本科二部を修了し、大正二年、結城東小学校の訓導を振り出しに、郡内の小学校数校に勤務した。そして妻が私立学校を開校した二年後の昭和三年から、その校長兼訓導となり、学校経営に専念し、修身、国語、数学、英語などの科目を担当した。
また設立にあたっては、水海道小学校校長などを長くつとめ、さらに町立実業補習学校校長や訓導を勤務し、同町の教育に多大の功績を残した松沢得三が招かれ、教養科目の授業を担当した。設立時にはこの外、裁縫等の教師として宮本フジノ、中村きみ代らがあたった。
こうした女子の教育機関が成立したのは、男子の菁莪学館と同様に、高等女学校にはいらないまでも、女子の一般教養に加えて、裁縫や家事などの花嫁修業を行うことに、当時大きな関心が寄せられていたからであろう。またミシンなどの新しい技術をとり入れ、科目を洋裁にまで広げた所に、同校の人気が高まるゆえんがあった。
同校も戦時中の私学統制令で廃校の憂き目をみたが、菁莪学館と合わせてこのように男、女二校の私立学校が存続した所に、水海道町の教育に対する関心の高さが示された。