青年学校の発足

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昭和一〇年の青年学校令により、それまで約一〇年間併立してきた実(農)業補習学校と青年訓練所は青年学校として一本化された。これは、深刻な経済不況を経て、昭和六年の満州事変が開始され日本の政治体制が大きく軍国主義の方向に踏み出した時期にあたっていた。また各町村にあっては、別個の教育機関を抱えていることは財政的にも困難なことであったことにも起因していた。
 農村部においては例えば大生農業青年学校、菅原農業青年学校、町においては結城農商青年学校のように校名が付された。修業年限は尋常小学校を卒業した者に対し、男女共二年の普通科、高等小学校を卒業した者には男子五~四年、女子三~二年の本科が課された。この外研究科、専修科という課程も置かれた。一例として昭和一三年の大生農業青年学校の在学生数を見ると、第四一表のようになる。
 
第41表 大生農業青年学校在校生数


普通科本     科研究科合計
1212345
15191155358
32466425


 
 生徒数は本科の男子を除くといずれも多くはないが、開設二、三年当時であり、また同校に適齢生徒の絶対数が少ないことを考えると、入学者数が少なかった訳ではない。また職員では男八名、女二名がおり、教練指導員の四名を除き、いずれも兼務であった。
 青年学校においても最大の問題は出席及び入学の奨励であった。大生農業青年学校においては被服補助の制度(県制定の制服を着用させるため、製作に関して補助金を出す)や、表彰制度(無欠席、欠席一〇時間以内、三分の二以上出席に賞状や精勤賞)を考えた。青年学校はこの問題を解決するものとして、昭和一四年から義務制にかわった。
 年間の授業日数、時間の配分は、第四二表の三妻村の事例にみるとおりである。
 
第42表 教授及び訓練時間数配分(三妻村)


男  子  部女  子  部
日数時間数日数時間数
431520100
5210210
6210210
7210210
8210210
9210210
10210210
11315210
1222104020100
122104020100
222104020100
317103020100
合計101130150114570


 
 これによると男子の昼間の登校日は四月と一一月が一か月三日で、残りの月は二日であり、一日五時間であった。そして一二月から二月までの農閑期に夜間の授業(一日二時間)が一か月二〇日、三月は一五日という割合で追加され、開かれた。女子部では一二月から四月の間が一か月二〇日間、五月から一一月の間は一か月二日(いずれも昼間)という登校割り振りが行われた。男子は年間二八〇時間のうち学科は一八〇時間、教練は一〇〇時間であったが、年間を通じて行われた昼間の登校日は主として教練にあてられた。
 青年学校の経営方針として、三妻村では、「忠君愛国の大義を明らかにする、向上の精神と濶達な気風を助長し情操を豊かにする、鍛練を旨として鞏固な意志と強健な身体を育成する、勤労を楽しみ生業に励む慣習を養ふ、教授と訓練科目を関連させ、実生活に即して知能を啓培す」ということを掲げたが、青年期にある青少年を国の方策に合致させ、軍国主義の強化に役立てようとしたものであった。