大正一四年から中等学校、専門学校に現役の将校が配属され、生徒の軍事教練にあたった。これは当時陸軍が二個師団削減されたのを機会に、その代償措置として講じたもので、中等学校や専門学校の生徒を将兵の予備軍に位置づけようとしたものであった。
水海道中学では昭和三年六月から、恒例のマラソンが廃止され、軍事教育の一環として全校行事が行われることになった。またこの年七月には校庭の一角に射撃場が設けられ、実弾射撃の練習が行われるようになった。
軍事教練が重視される中で、昭和四年一一月には、水戸で天皇の御親閲(閲兵分列行進)に参加したが、学校あげての一大行事であった。昭和六年の満州事変の開始によって、学校の雰囲気は一段と軍国主義の色を濃くした。軍部等は、中学生を対象とした軍事講演会、国防思想の宣伝普及に努め、映画もそうした傾向のものが盛んになり、水海道中学でもこれらの行事が開催された。そして水海道中学の校友会誌『済美』の記事の中にも、「犠牲精神と日本人」(昭和六年)、「野外演習記」(昭和七年)、「査閲」、「満州事変一周年を迎へて」、「時局に直面して」(以上昭和八年)、「東郷元帥を憶ふ」(昭和九年)、「国民思想の統一」(昭和一〇年)、というような内容の記事が多くなった。
昭和一二年七月の日中戦争の開始によって、一段と軍国主義化が進められた。この年水海道中学では運動会が廃止され、精神鍛練を目指す耐久行軍レースがこれに代わった。翌一三年からは鍛練訓育が一段と強化され、体育の授業に国防競技が導入された。
昭和一六年一二月、太平洋戦争が始まると、軍事教練、国防競技などが生徒の学習領域に大きく進出した。そして昭和一九年八月には、水海道中学五年生に勤労動員命令が下り、守谷町の海老原航空機工場(中島飛行機工場の下請工場)、取手町の東晃製機などの軍需工場に勤務することになった。つづいて同年九月からは四年生に動員令が下り、古河の三菱重工茨城機械製作所に勤務した。
翌昭和二〇年一月には三年生が横須賀海軍工廠に動員された。五月には日立製作所亀有工場が疎開した学校工場に二年生が動員され、スクラップ同然の戦車を改造して、本土決戦用の砲車を製作する作業に従事した。また一年生も、出征兵士や戦没者、傷夷軍人などが出て農作業に困っている農家の援農作業に狩り出され、学校はほとんど授業らしい授業を続けることが困難になった。
水海道高等女学校においても事情は同様で、「銃後の守り」としての担架訓練、自転車訓練、防空訓練を実施した。同校生徒は「報国団」(のちに報国隊)に組織され、農家の援農作業や学校農場で、食糧増産に励んだ。
昭和一九年から二〇年にかけて学校工場がつくられ、同校には富士通信機と、中島飛行機製作所がきて、三、四年生及び同校を卒業した女子挺身隊員が動員された。しかし昭和二〇年四月以降は、艦載機の襲撃が激しくなり、家庭でも学校でも危険な状態に見舞われることが多くなった。戦争は少年少女や子供たちの日常生活にも深く暗い影を落していた。