スポーツの普及と野球熱

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明治期においては欧米から近代スポーツが導入され、主として中等学校やそれ以上の高等学校に普及した。小学校におけるスポーツとしては、年間行事としての運動会や夏期の水泳指導が行われた。鬼怒川べりにあった当地方においては、遊泳会がさかんであった。早くは明治三〇年(一八九七)、組合立高等小学校の生徒を対象にした水海道二水遊泳会が設立され、水泳場が出来ている。
 この遊泳会は長続きせず、明治三九年(一九〇六)新たに、小学生も対象にした水海道遊泳会が創立された。この遊泳会の設立は、当時高校生(旧制)であった富村登や松田孟吉が、技術指導と水禍から少年を救うため、松沢小学校長に献策したことに始まった。
 水泳教場には水戸から水府流の教師を招聘し、小学生、高等小学生を主体とし、希望者は中学生、大人も入会が許され、活況であった(『富村登自伝』)。
 中学校においては当初から校友会活動として、撃剣、野球、庭球の各部がおかれ、のちに柔道(明治三九)と蹴球がこれに加わり、大正時代にはさらに水泳部(大正五)、弓道部(同)、徒歩部(大正七)が創部された。
 大正中期ごろから町内の少年たちにも野球が普及し、年々活発になった。大正九年(一九二〇)には鍵屋呉服店寄贈優勝旗争奪の少年野球大会が開催された。この大会は水海道体育協会(大正六年設立、会長鈴木春吉)の主催で、近隣町村のチームも参加する盛りあがりを見せた。
 水海道町における野球熱はその後年々高まり、昭和四年(一九二九)に第一回県下実業野球大会が水海道中学グランドで開催された。
 水海道からは水海道亀陵チーム(名前から水海道中学野球部のOBクラブ)が参加し、準優勝、翌年の第二回大会では優勝を果たした。この茨城県実業野球大会は昭和七年から東京日日新聞社主催の「第六回全日本都市対抗野球大会茨城県第一次予選会」と名称を替えた。
 昭和八年には町内橋本町に敷地四五〇〇坪、三〇〇〇人収容のスタンド付の水海道グランド建設が計画された。中心になったのは町と常総鉄道、町体育協会の三者の協力で、県庁土木課の設計協力も得て、翌年には竣工し、このグランドで開かれた茨城県予選大会には全水海道チームが参加した。
 

少年野球大会

 昭和一一年の第一〇回大会まで水海道を会場にして開かれ、翌年から水戸に移った。しかし戦争が日増しに激しさを加える中で、水海道グランドは閉鎖のやむなきに至る。しかし水海道体育協会はその永年にわたるスポーツ振興の成果に対し、戦時下の昭和一七年厚生大臣より表彰を受けた。