鈴木春吉の活動

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明治二二年(一八八九)福島県会津に生まれ、東京帝大医学部の眼科専科を卒業した眼科医師鈴木春吉は、一時北相馬郡守谷町で開業したが、大正七年から水海道町宝町に移った。熱心なクリスチャンであった彼は、水海道メソジスト教会の活動に加わり、同教会日曜学校の校長をつとめるようになった。
 昭和三年から彼は、大生村小山戸の吹上山を会場とした少年少女夏季林間学校を主宰する。この林間学校の一日は午前七時に教会堂前に集合し、ここから会場に行き、「君が代」合唱後それぞれの場所で午前の学習時間をすごす。昼休みには講話があり、午後三時まで鬼怒川で水泳の練習をし、おやつを食べて四時には帰路につくという日課であった。子供達に大変人気があり、約一〇年位継続したという(花沢進氏談)。
 鈴木春吉は日赤理事、県保護司連盟会長、水戸地裁家事調停委員、医師会長、公選県教育委員、労働委員など、戦前から戦後にかけて多方面にわたって活躍した。とくに昭和六年大生村に起った小作争議が長期にわたる泥沼状態に陥った時には、地主、小作の調停者として、両者の和解に大きな力を尽した。そうした中で彼は、農村の窮乏状態に深く胸を痛め、如何にしてこれを救うかに彼の全精魂を打ち込んだ。
 昭和九年から始まる農村福音学校は、水海道メソジスト教会を会場に、冬期の約一週間、農村の新しい中堅指導者の養成を目的として開催されたものであった。
 主催者は鈴木を中心とする日本メソジスト水海道教会共励会で、翌昭和一〇年の第二回目に際しては、県農林課がこれを後援した(『いはらき』昭和一〇年一月五日)。第三回からは「九愛村」と名づけた九人の青年がリーダーとなり、メソジスト水海道教会共励会は後援団体と位置づけられた。
 この第一回農村福音学校での講義科目は農家経営、農村計画、宗教問題、農村医学、農村副業などで、山梨県農会会長の若尾金蔵などが講師として招かれた。とくに若尾金蔵は農村セツルメント指導者として、料理指導も行うなど、参加した一五名余の青年に大きな影響を与えたという(『いはらき』昭和九年一月一九日)。
 九愛村の村長となったのは大生村小作争議の指導者のひとり広瀬正であり、助役には服部雄一(猿島郡神大実村)が当り、この学校の運営幹事となった。なお当地方にキリスト教の教えをもって臨んだ指導者のひとりに賀川豊彦があった。彼は戦前から戦後にかけてしばしば当地に足を運び、農村青年に大きな影響を与えている。
 

第三回福音学校案内チラシ