三妻村のごぼう生産

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大正二年に常総線が開通し、三妻駅が設置されたことは、地域の人びとにとって大きな利便となっただけではなく、生活様式や農業生産にもさまざまな影響をもたらした。取手から常磐線に接続することで東京が近くなり、米麦、野菜、薪炭などの出荷は、従来の鬼怒川の河川交通と比較して、著しく発展した。だがこうした反面、線路敷設によって農地が潰れたこともあって、三妻村でも耕地の減少を農業生産の増大で挽回しようとした。
 この当時三妻小学校長であった幕田茂次郎は、この地方のごぼう生産に着目し、この生産―販売を青年会に持ちかけた。幕田校長は村民の信望を集めており、また青年会は小学校(長)と深いかかわりがあったから、会員たちはこの話に耳を傾けた。
 青年会のリーダーであった小林清次郎はこれを早速実行に移した。小林が水戸農学校に学び、農業補習学校では講師をするなど、指導的立場にあったことも大きな力となった。青年会は結城郡農会の技手倉田龍次郎を招き、園芸講習会を開き、倉田も三妻村の土地がごぼうの生産に適していると述べ、栽培技術を教えた。大正二年倉田技手の指導でごぼうの試作地六畝を設け、秋には立派なごぼうを収穫し、自信を深めた。
 一方青年会では東京の青果物市場に赴き、市場調査を行い、ごぼうの有望なことも理解した。こうして翌大正三年、青年会は村民に呼びかけ蔬菜栽培組合を結成し、本格的にごぼう生産を始め、第一次世界大戦による好景気の波にも乗って、大きな成績をおさめることが出来た。
 種子は大部分「滝ノ川」種で、これを産地から組合が一括購入し、組合員に配布した。大正七年頃の調査によれば、栽培区域は三妻村の一円から鬼怒川対岸の大花羽村花島、西豊田村にも及び、三妻村での栽培戸数は一四八戸に及んだ。
 栽培に当っては、播種の一週間前に砂質壌土を深く耕しこれに堆肥を鋤込み、三月下旬から四月上旬にかけて種をまくようにした。点播、條播の二方法があったが、多くは点播きで、六寸間隔に三、四粒づつ、一反歩六、七合の割に播いた。成長過程における作業として、間引、中耕、追肥などがあり、肥料としては堆肥、人糞尿、大豆粕、過燐酸、灰などが適していた。
 栽培は普通畑栽培と、桑園の間作として行われたが、とくに桑の生育とは両立出来、ごぼうを掘りとる時に桑の根も切ることになり、桑の木の若返りに役立つといわれた。
 収穫は九月頃から始め、翌年三月上旬ごろまで及んだ。直径三センチ、長さ一メートル位が平均的な大きさで、中には直径五センチ、長さ一・八メートルにも及ぶ大きなものもとれた。中が詰った、白くて甘く、水分が豊富で歯ごたえが良く、三妻のごぼうは各地で喜ばれた。
 反当収量では、試算で六五〇貫を標準とし、一貫二五銭として一六二円五〇銭となり、支出経費一〇三円一八銭(種子、肥料、手間、道具、小作料)として、収益五九円三二銭という、かなり有利な商品作物とみられた。
 出荷は組合規約によって行われ、販路としては大阪天満市場を通して関西方面が多く、東京や県内にも運ばれた。集荷の際、青年会の中から選ばれた審査員により一等から三等までの等級がつけられ、品質向上に努めた。こうして三妻村のごぼうは全国的にも名を馳せることとなったが、第一次世界大戦以後の農産物価格が下落する中で、次第に振るわなくなった。
 

三妻ごぼうの出荷

 三妻村のごぼう生産が最も好調だった当時における生産状況は第四九表のとおりであった。
 
第49表 三妻村のごぼう生産
年 次付作面積生産額販売数量販売価格
大正3年1 町歩6,0001,319118
  4年4  〃 24,0003,132328
  5年5.5 〃 27,0009,5931,968
  6年5  〃 32,5009,5962,419
  7年5  〃 32,50015,4004,158
註) 『茨城県の農家副業』より。なお単位は貫,円以下切りすて。