菅原村の蔬菜栽培

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菅原村には、大生郷、大生郷新田、伊左衛門新田、五郎兵衛新田、横曽根新田、笹塚新田、と六大字があるが、その名前からも判断されるように、近世中期以来の飯沼ぞいに開かれた新田村が多い。
 地形は沼にそった低湿地の水田と、台地の上の畑地が混在している。気候が温和なため各種作物の栽培に適していたが水田の反当収量は低く、新田村が起こされた江戸時代中期頃から園芸栽培が代官によって奨励され、凶年の予備作として茄子や胡瓜の生産が始められていた。そして飯沼沿岸一帯から猿島郡方面にまで園芸栽培が普及して、旧三一か村に跨って栽培され、飯沼蓮根や、飯沼茄子、胡瓜は遠近に知られる様になったという(『茨城県の農家副業』第五編)。
 しかし明治になって茶や煙草栽培が伸びてきて、園芸作物はやや押され気味となったが、明治末~大正初期にかけて、結城郡農会や村農会において再び蔬菜栽培が奨励されるようになり、ようやく隆盛に赴いてきたが、とくに明治四三年の大水害がその契機となった。
 大正三年、三妻村のごぼう栽培に際してもみた結城郡農会技手倉田龍次郎の指導を得て、菅原村園芸組合が組織され、二八名がこれに加わった。第一次世界大戦時の好況によって順調にすすみ、組合員数も増加した。
 栽培品目は多かったが、はす(蓮根)、くわい、茄子、胡瓜、南瓜、しょうが、ねぎ、さつまいも、白菜、キャベツ等々に及び中でも、茄子、胡瓜、南瓜が主力であった。
 同村の園芸組合では、野菜の生産販売と並んで苗の生産、販売にも力を入れ、これには「本票ハ生産品ノ確実ナルヲ保証ス」という保証書(年月日、生産者名記入)を添付して販売した。こうした努力によって苗の価格も上昇し、収益をあげることが出来た。また一方では不良苗を混入した時は罰金を科すという規則も加えられていた。
 市場は近くは水海道、岩井、下妻、境などの近隣の町場と、土浦、下館、結城、古河にまで運ばれた。また、茄子苗などは千葉県等の県外にかなり販売された。同村の蔬菜と苗の生産並びに販売実績は第五〇表のとおりである。
 
第50表 菅原村園芸組合の生産と販売の実績
 大正4年大正5年 
 生産額販売額生産額販売額苗1本当り
平均価格



な す35,00033,00050,00045,000
きうり35,00033,00050,00035,000
かぼちや25,00023,00040,00035,000
は す6,0005,80012,00010,000
すいか60,00055,000
な す442,90041,000550,000530,0005厘   
きうり46,00036,00050,00040,0006厘.5毛
かぼちや6,8005,00010,0009,0006厘.5毛
とうがらし6,0005,0006,0005,0004厘   
註) 茨城県農会『農業成績並副産品共進会報告』による。


 
 昭和期に入っても同村では、蔬菜栽培に力を入れてきたが、太平洋戦争が始まると、次第に化学肥料やボルドー液など消毒薬が入手困難となり、また麦やさつまいもなどの食糧増産や供出割り当てなどで、栽培が減退せざるを得なくなった。