特定倉庫の設立から農業倉庫へ

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水海道農業倉庫は、大正一三年三月水海道町外一一か村農会による連合特定倉庫として設立されたことに始まる。当時各地の農会や産業組合において、農産物の共同販売事業が検討され、小規模に実施されつつあった。こうした中で水海道町農会長の鈴木吉太郎らの提唱で、穀物検査所出張所の大畑技手に指導を求めた。
 大畑技手は同水海道検査出張所の区域を一括した特定倉庫の設立を勧めた。この区域とは結城郡水海道、豊岡、菅原、大生、筑波郡長崎、鹿島、十和、福岡、真瀬、さらに北相馬郡坂手、菅生、内守谷の一町一一か村であった。この範囲は水海道町を中心とし、ほぼ常総線水海道駅を利用して農産物等の出荷が行われた地域であった。斡旋委員になったのは各町村の農会長で、水海道町からはさらに五人の委員が選出され、大正一三年三月七日の協議会において、設立が決められた。
 当初は仮に笹屋倉庫に場所を定め、月三回(五、一五、二五日)の販売日を設けた。販売方法は出来るだけ貨車一両以上を目的とし、敷札は三人以上の斡旋委員の合議で作成する、代金は翌日委員に渡す、等々が決められ、第一回の販売日を同月一五日とした。さらに同特定倉庫穀物共同販売規程を設けて、競争入札、開札、取引等級建値、代金支払方法等の細則を定め、各地の商店に広告を出した。
 同年四月一日に特定倉庫は山中運送店と穀物取扱いに関する契約を結び、ここを拠点にすることにしたが、町内を始めとする穀物商が、特定倉庫の設立に不満をもち、不買同盟を結ぶという対抗手段に出た。この時は役員等の努力で事無きを得たが、こうした動きに対処するため、千葉県や東京の会社や商店、さらに帝国穀物斡旋所などを訪問して、販路の拡張につとめた。これ以降においても商人らは共同販売場を駅前に置き、対抗的手段に出ること数回に及んだが、倉庫側による堅実な入札者の確保と、倉庫販売が比較的高価で、しかも確実であることが漸く一般農家に認められ、その後は妨害運動は消滅した。
 翌大正一四年二月、特定倉庫を農業倉庫と改めることになったが、その場合は経営は町村連合による共同経営は出来ず、水海道町農会の事業となり、従来の各村は援助団体となった。同年七月県の認可を得て、七月一〇日業務を開始し、新たに事務所建設も決定し、一〇月竣工した。
 その当時における同倉庫の穀物取扱い数量は第五三表のとおりである、扱い量の多いものは水田粳(うるち)と、小麦が同程度であった。それに次いで陸糯(おかもち)と大麦であった。この外大豆、小豆、蕎麦もあったが、大豆を除いてはごくわずかな取り扱いであった。
 
第53表 水海道農業倉庫販売取扱い俵数(大正15年)(単位:俵)
 水粳水糯陸粳陸糯大麦小麦大豆小豆蕎麦
 1月1,6064816422922,091185,130
 2月846123293164443221,891
 3月1,146214239405191222,217
 4月1,319401424635446343,259
 5月91386257864384172,523
 6月1,0332020791754072,724
 7月1,1133886746182,06954,867
 8月1,587622029994,72337,576
 9月2,529872616082,07785155,662
10月3,3416221,0898492,12733187,809
11月2,029793131,8577432,7722098,416
12月2,3323,18721,5155002,037163539,744
19,7945,904177,6607,59419,90291628361,818