農業倉庫の発展

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水海道町農会によって経営された農業倉庫は、昭和二年九月、産業組合法による有限責任販売利用組合水海道農業倉庫と改組になり、組合員制度を採ることとなった。これにより当初は組合員以外の者は利用出来ないという噂が飛んだが、組合側は「組合員でない方でも俵の取扱いに就いては従来と少しも変りありません却って保管の如きは穀商の持分―当分の間―を除いた外、何処の村の方でも差支へなくなりました」と説明し、さらに直接倉庫で金の貸出は出来ないが、金融の斡旋をすることが出来る、と宣伝に努めた。
 その組合員になるためには、一口二〇円の出資金を払込む必要があり、一回に五円以上の分轄払込みの制度もあった。
 事業は販売部門として、米、麦、大豆、小豆と、総代会の決議を経た産物を取り扱うこととした。また米麦の精白、縄の仕上等の加工業も行った。利用部門としては、倉庫、産業用機械器具、総代会の決議を経たその他の設備を備え置くこととした。農業倉庫の利用については業務規程を設け、保管、調製改装及び荷造、運送または販売の仲立、取継ぎ、金融斡旋等を行った。
 昭和六年春の総代会で購買業務を兼ねることとなり、販売購買利用組合と名称が変わった。購買部門の主なものは肥料で、肥料の配合も併せて行うこととした。昭和恐慌時における農産物価下落のため、同倉庫では組合員に対し次の様な強い要請と協力依頼を発した。
 

水海道農業倉庫

 
     御願い
   近来各方面とも経済難に陥りまして誠にお互痛事であります殊に農村経済は日に/\其逼迫の程度が激
   しく何処まで進むのやら何時不景気が挽回するや見当も付かずこの儘推移しますと想像以上の悲運を招
   来せぬとも限りませぬそこで私共は皆様と手に手を取りあって自衛上私共の収入の源泉たる穀物に就て
   左の様なことをお互に守り例え壱銭壱厘でも収入を増す様心掛け農村経済難を切り抜けたいと思いま
   す……
 
 具体的には、「生産改良に従来より一層留意せられたい」、「販売価格を有利にするため品種の統一」、「経費節減のため指定所検査を減らし農業倉庫で受検せられたい」、「割高に販売するためあらゆる手段を講ずるので農業倉庫を利用せられたい」、「肥料購買も行うので利用せられたい」等々の項目を掲げた。そして「最後の販売は凡て農業倉庫に依り倉庫発達を期し延いては皆様の収益を多く」するようにしたい、と結んだ。
 昭和一〇年時点における組合員数、出資口数は第五四表のとおりである。組合員数は約一三七〇人前後で、一町一一か村を範囲としていること、産業組合として販売・購買・利用等の幅広い事業を行っていたことを考え併せると、必ずしもその数は多くない。町の商家を除き、農業一三二〇人を一一か村で平均すると一村約一〇〇人内外ということになる。
 
第54表 水海道農業倉庫組合員数概況
 前年度末現在昭和4年度加入及脱退昭和10年度末現在
組合員数出資口数加入者数脱退者数組合員数出資口数
農 業1,3262,95844501,3202,963
商 業432491143243
其の他10141014
小 計1,3793,22145511,3733,220
法 人11122
合 計1,3803,22246511,3753,222
(出資1口金20円)


 
 しかし、農会経営で行っていた大正末期の穀物取り扱い量(第五三表)と、昭和一〇年の扱い量(第五五表)を比較してみると、その差は明らかである。玄米入庫は四万五九一一俵で前表の三万三三七五俵に対して三五パーセント上昇と、それ程目立たないが、大麦においては約三倍、小麦も約二・八倍、大豆は六倍とそれぞれ大幅に伸びている。また取り扱い品目も広がっている。つまり組合員数においてはそれ程の増加は見なかったが、産物の取り扱い量では、かなり活発な状態であったことがわかる。
 
第55表 水海道農業倉庫取り扱い俵数(昭和10年)
(単位:俵)
 前年度末
現在
昭和10年
中入庫
同年中
出庫
同年末
現在
同年中
販売
玄 米2,56645,91145,8222,65543,973
大 麦1,81622,63721,3383,11516,331
小 麦2,66959,89961,96460450,589
大 豆3565,9675,9204035,850
玄 粟1032129734318
蕎 麦1125323925247
小 豆11291246127
蚕 豆555
菜 種313313
甘 藷411411411
合 計7,429135,846136,4336,842117,851


 
 なお同倉庫は、昭和一一年五月の一町村単位の産業組合でなければ米穀取り扱い等が出来ないという法改正(米穀自治管理法)により、県下の農業倉庫はすべて保証責任茨城県販売購買利用組合連合会の出張所となり、同倉庫は水海道出張所ということになった(翌年一月実施)。