太平洋戦争は日増しに深刻となり、戦局の不利は覆うべくもなかった。昭和二〇年(一九四五)六月以降は、茨城県内においても日立、勝田等の工場地帯に対する艦砲射撃や空襲がくり返され、水戸の市街地も空襲によって大きな被害を受けた。主要な軍事施設や工場等の少ない水海道地方においてはそうした直接の攻撃目標にされることはなかったが、「敵機襲来」に備えての警戒体制は常にとられるようになった。
戦争によって家族からの応召や学徒動員による戦場への送出はもちろん、「銃後」の日常生活も全面的に戦争協力体制に置かれていた。増産や供出の割りあて、勤労動員、そして納部隊といわれた部隊の駐屯や疎開児童の受入れ協力などがそれであったし、本土決戦に備えての訓練もあった。
このような状態で昭和二〇年八月一五日、「玉音放送」で敗戦を知った多くの国民は、それまでの張りつめた緊張感から解放され、一時は虚脱状態に陥った。そして時の経過とともに、戦争によって受けた打撃の大きさが図りしれないものであることが、しだいに明らかにされていった。
日本政府は当初、「国体の護持」を図りつつ国家再建の呼びかけに懸命であったが、その基本政策も占領政策の展開によって変化せざるをえなくなった。占領軍は日本の全ての軍隊を解除し、さらに太平洋戦争を引き起こすに至った戦前軍国主義の支配構造に根本的なメスを加える諸改革を打ち出した。財閥解体、農地改革、教育改革、労働改革などがその内容であり、その基本精神となった新憲法は二二年五月施行された。
地方において顕著に現れた改革は農地改革、教育改革であり、地方自治制度の実施であった。それと同時に戦争協力者と目された人びとの公職追放が行われ、旧来の指導者に代って新しい階層が登場することになった。また学校では、戦前教科書の一部分に墨が塗られて使われたのもこの時期のひとつの現実であった。
こうした中で戦前の小作争議などの指導者や青年層が、諸改革の先頭に立って活躍することとなった。