農地改革と農地委員会

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「土地を耕す農民へ」のスローガンは戦前農民運動の悲願として、各地で掲げられ、闘われたが、実現しなかった。そして戦後改革の中で地主制度は日本の農業、ひいては経済全般の進歩を妨げた要因であり、さらに日本の農村の民主化を妨げている重要な要因であるとして、農地改革が実施されることになった。
 まず日本政府は資本主義経済の発達を妨げてきた地主制度を廃止するため昭和二〇年一一月、農地制度改革要綱を発表して第一次農地改革に着手した。しかしこれによって提示された第一次改革案に対しては連合国軍総司令部が根本的な点で不徹底だとして承服せず、さらに徹底した改革案が要求された。
 第二次農地改革案は総司令部の全面的な指導の下に、昭和二一年一一月、自作農創設特別措置法と、改正農地調整法の両案として成立し、施行に移されることになった。これによると、第一に小作地の買収は直接政府が行い、これを小作農民に売渡す直接買収方式がとられた。第二に不在地主の所有する全小作地、在村地主の一町歩の保有地(茨城県の場合には一・二町歩)以外の小作地は全て買収する。第三に自作地は三町歩を超えた部分を買収する。第四に買収価格は田畑とも土地台帳記載の賃貸価格を基準にして、田はその四〇倍、畑は四八倍とする。さらに三町歩を限度に水田反当二二〇円、畑反当一三〇円の報償金を支払う。この支払いを政府は農地証券(年利三分六厘五毛、償還期間二四年)で支払う。
 この外農地以外の宅地、建物、採草地・未墾地・牧野などの買収規定、買収基準年次(昭和二〇年一一月二三日の農地制度改革要綱発表の翌日)を制定し以降の農地移動を抑制する、小作料の低率金納化、等々の内容を盛り込んだ。
 そしてこの実行機関として、町村及び県に農地委員会が設置されることとなった。農地委員には地主、自作、小作の各階層別に選出された委員をもってあてるとし、小作五、自作二、地主三の合計一〇人をもって構成されるとし、委員長は各委員の互選によるもの、とされた。また県には茨城県農地委員会が設けられ、上級の立場に立つ指導が行われることとなった。この町村及び県農地委員会は、昭和二一年一二月一日に、戦後与えられた婦人参政権の投票も含む新しい選挙制度で行われ、選出された新しい顔ぶれの委員により、戦後の重要改革が着手されることとなった。『文化茨城』創刊号等に掲載された水海道地域各町村農地委員の顔ぶれは第五八表のとおりであった。
 
第58表 各町村農地委員当選者(○印は農地委員長)
(水海道町)山野井吉雄,○中山藤吉,沼尻泰,片野幸作,五木田清次郎,土信田清太郎,山本秀雄,喜見山辰雄,小林好一,亀崎忠助
(豊岡村)○飯田淳之助,飯田一郎,小林伝松,荒木俊一,小林勝,古谷治助,小林光,石塚盛一郎,片倉喜一,石塚国松
(大生村)須藤長夫,石島徳一,渡辺三永,○山本和平,山本準次郎,大木兼吉,本橋信次郎,笠原善一,野村勇一,見村善雄
(三妻村)染谷秋之助,宮島菊松,猪瀬重右衛門,吉川政吉,中島峰藤,中山保三郎,落合要三郎,鈴木竜太郎,○有田信一郎,倉持藤吉
(菅原村)坂野松雄,木村長兵衛,坂野孫逸,渡辺精次,中島太平,戸塚誠一,岡野周助,古谷民次,井上幸一郎,鈴木弥一郎
(五箇村)吉原新四郎,木村幸一,斎藤孝之助,沢田清重,柴田福太郎,斉藤一夫,横田新六郎,橋本一郎,吉田弥一,塚田四郎
(大花羽村)石塚玄吾,古谷弥一郎,荒木源蔵,草間亮,堀越豊吉,草間春雄,石塚孝七,石塚峻,石塚林之助,○石塚勘兵衛
(菅生村)鈴木一郎,鈴木芳太郎,長塚幸作,浜野数馬,横島一雄,皆見盛,鈴木一郎,○茂呂磯吉,小林四郎,糸賀竹治
(坂手村)○石塚勝造
(内守谷村)○瀬崎武雄
註)『文化茨城』(創刊号)昭和22年1月15日。坂手村,内守谷村は『北相馬郡勢要覧』による。