農民運動の発展

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農地改革をはじめとする戦後諸改革の中で大きな役割を果したのは農民組合を中心とした農民運動の力であった。既に昭和二〇年一〇月、連合国軍総司令部の命令により、治安維持法が廃止され、戦前戦中から長い間政治犯として投獄されていた人びとが解放された。これらの人びとは再び活動を開始し、革新政党の活躍が活発になり、全国各地にあってこれに呼応する動きが出てきた。茨城県においても鹿島郡地方で農民の組織化を始めた山口武秀があり、水海道地方でも戦前からの農民運動家菊池重作らが社会党支部を結成し、さらに農民組合運動の組織化をすすめていた。
 昭和二一年一月になると山口武秀の指導になる常東農民組合の結成がみられ、間もなく菊池らの指導する常総同盟も結成された。そして二月には日本農民組合の結成大会が東京で開かれ、これを契機として四月一九日、常東農民組合、常総同盟を中心とした日農茨城県連合会が結成され、委員長に菊池重作、書記長に山口武秀が就任し、県全体の運動の基盤が出来上がった。
 常総同盟は日農常総支部として発足し、委員長に菊池重作、書記長には十和村の出身でこれも戦前から農民運動に加わっていた古谷明(水海道新聞主幹)が就いた。ちなみに菊池はこの年四月に行われた、戦後初の国政選挙に立候補し、全県一区定員一三人のところ第二〇位で落選したが、水海道地方ではかなり善戦した。なお古谷明は翌二二年二月に行われた第一回県農地委員選挙に際して第二選挙区から自作農代表として立候補し当選した。また同年四月には、菊池重作が衆議院選挙で当選を果し、この面でも農民運動は大きな前進を遂げた。
 町、村単位の農民組合も著しく発展した(第六二表)。特に早かったのは大正末から昭和初年にかけて、裁判闘争も含む長期に渉る小作争議をくり拡げ、周辺農民にも多大な影響を与えた菅生村に、農民組合が結成(解体されていた組合の再建とも評価される)された。社会党細田綱吉代議士の後援をえて、日農菅生支部と称した。村内のあらゆる階層から二五〇人が参加し、委員長には茂呂磯吉が就き、運動方針として、次の三つを掲げた。
 
 一 農地制度の根本的改革
 二 新農業組織の確立と達成
 三 民主的農村生活、文化の建設
 
第62表 戦後農民組合の結成状況
組 合 名設立年月日組合長組合員目   的
日農三妻支部1946.10.29有田信一郎220自作,小作農民で組織し小作権確立,農民の生活安定
大生村農民組合
(単独)
1946.9.13山本和平
(結成時の組合長は山崎淳)
200地主,自作,小作農民で組織農地改革の徹底,新農組織の確立,民主的農民生活と文化の建設
日農菅原支部1946.10.14古谷長一郎230自作30%,小作70%
目的は大生村農民組合と同じ。
日農菅生支部1946.3.10茂呂磯吉250自作,小作,地主
目的同上
日農内守谷支部1946.4.10瀬崎好一138小作農主体,農地解放の徹底
出典) 昭和22年1月「農民組合台帳」による


 
 この中でも特に重視したのは一の農地改革で、組合は委員長茂呂磯吉が村農地委員会の委員長でもあり、挙げて農地改革の徹底化を図った。菅生村についで隣の内守谷村にも日農支部が結成され、小作農民を主体に一三八人の組合員を結集し、農地改革の徹底化を目指した。
 大生村には昭和二一年九月、農民組合が結成されたが、この村では日農に加盟しなかった。その要因となったのは戦前期の大生争議に際して、全国農民組合(全農)が社会党系の総本部派と共産党系の全会派の両方から組織指導が加えられ、それが為に争議が深刻化した生々しい体験があったからと思われる。同村でも運動の主目標は農地改革の徹底で、農民組合から地主自作代表委員として、農地委員になり委員長となった山本和平がいた。山本は村長もつとめ、村政、農地改革ともに農民組合指導型で行われたひとつの典型であった。山本に次いで昭和二四年から村長をつとめたのは戦前農民組合の闘士であった山崎淳であった。また前述した菅生村の組合長茂呂磯吉も同時期村長に選出された。
 昭和二一年一〇月には菅原村と三妻村に日農の支部が結成をみた。菅原村支部は小作農民を中心に自作農も含めて二三〇人で、組合長には古谷長一郎が就いた。三妻村では組合員が二二〇人で、有田信一郎を代表とし、小作権の確立、農民生活の安定をスローガンに掲げているが、農地改革の徹底が中心課題であったのは言うまでもなく、有田信一郎は村農地委員会の委員長に選出された。
 なお昭和二一年六月に組織された常総地区農民協同組合は、県西地方四郡(結城・筑波・真壁・西茨城)一円に組織され、組合員の生活向上を目指して、消費物資の共同購入、共同生産、加工、共同施設の利用、生活向上のための文化、教育、衛生、娯楽等の施設を設けることを目的とした経済文化活動を主眼とした。政治活動も行うことを規約ではうたい、書記長には東京の古谷甲七郎がつき、現地水海道の稲吉當夫がその代理をつとめ、農民運動の補完的役割を果そうとした。