地方自治制と町村長

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昭和二二年(一九四七)五月三日の新憲法発布とともに、地方自治法が施行をみた。地方自治は民主主義体制を実現する重要な一環として重視され、これまでみられなかった多数の人びとの意志が、政治、行政に反映されることとなった。府県においては知事が公選となり、県議会議員選挙も婦人参政権による新制度のもとに実施された。同様に市町村においても公選の市町村長及び市町村会議員の選挙が一斉に実施されることとなった。
 同年四月は、二〇日の参議院、二五日の衆議院の両国会議員選挙を中にはさみ、五日に知事及び市、町村長選挙、三〇日に県会、市会、町村会議員選挙が行われるという、かつてない選挙の相つぐ年となった。それだけに新時代の到来を遂げる活気が期待され、一部にそれは見られたが、町村長選挙にみる限り、あまり芳しいものではなかった。
 水海道町においても、初代の民主町長の椅子に就く人物をめぐって盛んにとり沙汰され、一時は数名の有力者の外に女性の名前二人も噂になる程であった(『文化茨城』第一号)。農村部においては従来各方面で活躍したいわゆる「大もの」とされる人びとが追放を受けており、新しい勢力、特に農民組合関係の進出が見ざましい、とされた。こうした情勢の下に、「資格審査申請書」を提出した段階では各町村とも二~四名程度の立候補が予想された。
 選挙の結果は次にみられるとおりであった。注目の水海道町長には無投票で寺門健夫が当選したが、彼は昭和一一年から勧業銀行水海道支店(元農工銀行支店)に支店長として勤務していた人物であった。『文化茨城』は「金的を射止めた寺門健夫氏―公選新町長の横顔」という記事の中で、新町長に対してつぎのような期待を寄せた。
 
   町長と云へば、二三の例外を除いて、いつも一流財閥のタラヒ廻し劇をくり返して来たのがついこの間
   までの実情だった。が然し歴史の歯車の目まぐるしい急転回は、いつの間にか、この骨の髄にまでしみ
   こんだ根強い封建思想を吹っとばして、明るい希望に満た民主々義の黎明をもたらした……寺門健夫氏
   が現職のまゝ立候補し、みごと栄えある金的を射止めたことなど、その一つの現はれであらう。時代は
   急テンポで変ってゆく、生えぬきで無く、金持ちでも無い寺門氏に町長のお鉢が廻ったことは、とりも
   直さず、これまでの沈滞の極にあった町政に、新らしい刺戟を求むる大多数町民の盛り上る熱意が如実
   に現はれたものと見ることができよう、それだけに彼の今後に背負はされた義務と責任は頗る大きいわ
   けだ(『同』四月一五日付)
 
 無投票当選という、一方でこの選挙を「沈滞」と見つつも、なお「大多数町民の盛り上る熱意が如実に現はれた」と評したところに、論者の新町長に寄せる期待の大きさが感じられる。
 各村においても予想されたとおり新興勢力、農民組合関係者の進出が注目された。中でも三妻村長の染谷秋之助は、戦前期の青年運動や「惜春会」で活躍し、文芸運動などにも力を入れた活動的人物であった。「田園詩人」と評された彼はその後家業に励み、「縦横の才を発揮し」て「放胆によく儲けた」時期もあった。そのために「ごうごうたる非難」がある反面「百万の知己」があるとされ、農民組合を背景に農地委員長をつとめる有田信一郎に打ち勝って当選した。彼は昭和二六年からは県会議員に転じている。
 
第63表 公選第1回町村長選挙結果
 選  挙  結  果
大花羽村○ 斉藤和市(604票) 次点 石塚泰造(334票)
菅原村○ 菅沼二(無投票)
豊岡村   再選挙→小林誉積(無投票)
五箇村○ 長岡健一郎(934票) 次点 浅野禅山(108票)
三妻村○ 染谷秋之助(895票) 次点 有田信一郎(731票)
大生村○ 山本和平(1079票) 次点 和田吟次郎(109票)
水海道町○ 寺門健夫(無投票)
菅生村○ 茂呂磯吉(713票) 次点 長妻安三郎(623票)
坂手村○ 岡野佐二郎(583票) 次点 染谷清作(317票)
内守谷村○ 瀬崎好一(475票) 次点 小礎良男(338票)
註) ○印 当選者
 『いはらき』昭和22年4月5日,7日,8日
 『文化茨城』昭和22年4月15日


 
 五箇村の長岡健一郎も青年運動、文化運動のリーダーとして戦前から活躍しており、昭和二六年には無投票で再選された。大生村、菅生村は既に見たように農民組合、農地委員会委員長等の役職につく指導者がそのまま村長にも就任するという、農民組合指導型の村政が展開されることになった。