新しい町政の展開

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町村長の選出に引き続き、四月三〇日の選挙で、新しい町村会議員が誕生した。無投票当選という大花羽村のような例もあったが、概して政治情勢を反映して激戦であった。水海道町会も新議員二六人が選出をみたが、そのうち旧議員から資格審査を申請して再び当選したものは二人のみで、残りはすべて新人であった。
 発足した水海道町会においては、正副議長選出や助役の承認等を行い、新しい諸課題に取り組んだ。当時水海道町においては、新制中学校の建築問題、橋本町下水新設問題、関東配電営業所敷地購入問題、県土木出張所の誘致問題(石下町と競合)、国民健康保険対策、保健所の新築問題などのほか、常総鉄道の松戸駅乗り入れ運動、水海道中学及び高等女学校の高校昇格運動等々、多くの課題が山積していた。
 町会においてはこれらの個別諸問題のための特別委員会を発足させ、また六月からは新たに教育、土木、衛生、経済、税務の各委員会、翌七月には地方自治法に基づき、総務、教育・民生、経済の各常任委員会を発足させ、各委員会に全議員が所属した。
 新制中学校は元菁莪農商学校の校舎跡を利用して発足していたが老朽化が著しく、増改築が必至とされ、一般町民から二〇万円の寄付を募って改築工事を行うことになった。一方町では、生徒数からみて同校敷地には限界があるとして戦時中町が半ば強制的に東晃製機の工場敷地として売り渡していた町内大師山公園(それ以前は山中彦兵衛家が所有していたものを、昭和一〇年同家が町に寄付したもの)の敷地買戻し計画を進めた。翌二三年、二五万円で漸く交渉が成立し、ここへ水海道保健所を新築するほか、町民グラウンドや新制中学校を建設する見とおしがついた。
 発足当初の町会には、かつてなかった政治の民主化をすすめる農民運動、革新運動の人びとの監視の眼が光るようになり、従来の如き「慣れ合い」政治は出来なくなったのが一つの特徴であった。一例として当時水海道町内で話題になった。〝ガソリン問題〟があった(『文化茨城』一一号、昭和二二年一一月)。これは敗戦後占領軍によって町に四九本に及ぶドラム缶入りアルコールとモビールが払い下げられたが、この売却代金の行方をめぐって紛糾した一件であった。また戦前あった警防団は戦後解除され、新たに消防団が結成されることとなったが、水海道町会では消防後援会の設置を決定した。しかしこれをめぐって〝天下り的〟で不明朗であると町内の一部に反対運動が発生した。こうした事件はいずれもそれ以上大きくはならなかったが、当時の町民の関心をかった問題であった。
 一方眼を農村部に転じてみると、農民運動の盛んであった大生村では農民組合の推せんを受けていた村長が、農地改革や供出などの問題で「独善専行」として不信を招くこととなり、昭和二三年一二月には出直し村長選挙が行われ、山本に替って山崎淳が当選した。
 このような動きを背景にして昭和二二年四月の第二回衆議院選挙には茨城県第三区から「水海道の裏長屋から国政の舞台へ登場」といわれた菊池重作の当選、そして約二年後の昭和二四年一月には、菊池に替って共産党の池田峰雄が当選するといった、新しい政治の動きが展開したのであった。