自治体警察の発足

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昭和二二年九月、占領国軍総司令部の命令により警察制度の見直しが図られ、地方における警察は、新たに国家地方警察と自治体警察の二本立てとなった。自治体警察は翌二三年から人口五〇〇〇人以上の市町村に置かれることとなり、水海道町にも設置が決まった。
 翌年一月、自治体警察運営の中核にあるとされた公安委員として、町長から有松八郎(日本キリスト教団関東教団茨城支部長)、秋場八郎(歯科医)、増田千代子(水海道婦人会長)の三氏が推せんされ、町会で承認された。警察署の構成としては警部補署長以下署員一三人の定員で、庁舎は当分従来の警察庁舎を引継いだ国家警察と同居ということになった(その後町役場二階に間借り)。この変化に伴い従来の水海道警察署は、南結城地区警察署と改められ(結城町に北結城地区警察署が置かれた)、郡南部の一五か町村をその管轄下とした。また従来管轄下であった筑波郡の一部、北相馬郡の一部はそれぞれ当該郡警察署管下になった。
 新公安委員の役割は、「国民の代表として所管警察の管理については国家からいかなる干渉も受けず警察の運営及び警察の人事、予算、組織その他行政に完全なる権限と責任をもつもので不偏不党公平無私な立場が望まれている」とされた。また一方で地域有権者三分の一の連署がある場合には解雇されるという強弾権発動の権利がある、とされた。
 町会では二三年度警察費予算として一五万円(町全予算三六五万円余)を充て、さらに庁舎新築と警察署員住宅五棟の建設に取りかかった。庁舎新築は国庫補助五〇万円が決まっていたが、敷地の決定に難航し、ようやく横町の元釜源別荘跡地に決まったものの反対運動があるなどして竣工、落成したのは二四年六月であった。
 自治体警察は民主化政策の一環として町村の力に依拠して行われようとしたが、財政的に町村を圧迫し、さらに警察自体の装備力や、捜索力で国家警察に比し劣勢が明らかで、昭和二五年の朝鮮戦争勃発を機に占領軍により再検討され始め、翌二六年には警察法が改正となり、住民投票によって自治体警察を廃止出来ることとなった。町内でも自警存続には賛否両論があった。廃止賛成側は警察予算が町費の一一パーセント~一三パーセントを占め、苦しい町の財政では存続が難しく、国家警察一本で良い、とした。反対側は予算の大半は国の平衡交付金で還元してきているので、町の負担はそれ程でもない。われらの警察として健やかに育てるべきだ、というものであった(『文化茨城』第七四号、昭和二六年八月一日)。
 しかし町議会ではあっさり廃止に決まり、九月二〇日の住民投票でも投票総数二一八三票、廃止に賛成一五七三票、同反対五八五票、無効二五票で、三か年余にわたって存続した自治体警察は廃止となった。