新制中学校の発足

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新制中学校は昭和二二年四月から発足することになった。これは前年三月から来日したアメリカ教育使節団の勧告――人間性尊重の教育理念、六・三制、政治から独立した教育委員会制度――のひとつとして、これに協力した教育刷新委員会の政府に対する熱心な働きかけが効を奏して実現したものである。政府はインフレ、食糧危機という未曽有の困難に直面しつつも、昭和二二年二月の閣議で、六・三制による義務教育制度を発足させることにしたのであった。
 実質的には従来の高等科、青年学校等が新制の中学校に切り替わることになった訳であるが、各町村においてはこの時期新しい中学校を建設する財政力はとてもなかった。そこで当初は小学校に同居しながら二部、三部の授業を行って運営するところが多かった。当時五箇村長だった長岡健一郎は次のように回顧している。
 
   小学校は六年、中学校は三年の義務教育が国民学校にとって代った。しかし校舎は別々にしなければな
   らないので困った。とりあえずは、旧国民学校の校舎を分けて使用することにして、中学校は東側の校
   舎を教場とし、旧青年学校の銃器庫を職員室として発足した。……とにかく中学校校舎を増築して小学
   校と併置することになり、旧霞ケ浦航空隊の倉庫(三〇〇坪)を金三十五万円で払下げた。これが仲々立
   派な建物で解体したら四教室分だけでは余って、五十坪ほどの隔離病舎も出来た……。
                                    (『五箇小学校新築記念誌』)
 
 次に教員の確保とそのレベルの問題に直面した。小学校と同じく退職者が相いつぎ、校長は人材の確保に頭を悩ませた。また戦時中に旧制中等学校や女学校を短縮で卒業した代用教員をそのまま新制中学校の教員に任用替えするには、周囲の抵抗も少なくなかった。また定員の補充がすぐには出来なかったので免許外の課目を担当しなければならない場合も多く、この面でも問題は後まで残ることになった。ことに義務制となった英語科の学習には生徒たちもとまどい、なかなかついて行けない者もかなりみられるようになった。
 水海道中学校の校舎建設問題は、前節の新しい町村議会の所でみたが、いち早く中学校の独立校舎を、組合立で建設し発足させたのは、絹西中学校であった。菅生村、坂手村、内守谷村の北相馬郡三村では、戦前にも部分的に高等科の組合立運営などがみられたが、新制中学校発足当初から組合立方式が検討され、昭和二二年六月に話がまとまり、同年一一月、元霞ケ浦航空隊の兵舎を払い下げ、菅生村地内への校舎建設に着手した。これには国庫補助起債一六〇万円と寄付による二〇〇万円の合計三六〇万円を要した。当時の二〇〇万円は地方にとってたいへんな巨額であり、組合村村民の教育に対する期待が大きかったことを示しているといえよう。
 このほかにも組合立中学の案がいくつか出された。例えば五箇・三妻・豊岡・大生・水海道などであったが、成功したのは菅原村と大花羽村の場合で、これは昭和二六年三月組合を発足させ、翌二七年一月向丘中学校として校舎が竣工した。