教員の自覚と組合運動

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GHQの学校視察などによって旧体制の軍国主義的・超国家主義的なものは一掃されていったが、水海道小学校では昭和二一年八月、その象徴的存在であった奉安殿の取りこわしが行われている。
 しかしそのような外からの力ばかりではなく、各学校内には戦後の民主化運動の流れをくんだ、自覚的な教員による組合結成の動きが起っていき、昭和二一年三月、水海道地方教員組合の結成をみた。組合設立の目的は、つぎのように格調高く謳い上げられた。
 
   新日本建設ノ根幹ハ教育ニ在リ。我等ハ今コソ封建的隷属性カラ睲メ自ラノ手ニヨリ自ラノ組織ニヨツ
   テ自ラノ生活権ヲ確立シ教育ノ徹底的民主化ニ挺身セザルベカラズ……
 
 全国的には敗戦の年の暮頃からいくつかの教員組合が結成され、昭和二一年六月、日本教育労働組合(日教労)として多くの地方支部を傘下におさめた。
 水海道地方教員組合の結成は県下では早くまとまった動きのひとつであり、五月には水海道小学校を会場にして総会を開き、水海道、大生、五箇、三妻、大花羽、菅原、豊岡の一町六か村の小学校教員が参加し、生活の防衛、教育改革、地域変革の課題を決議した。そしてその年八月一九日から二三日までの五日間、夏季休暇を利用して夏季文化講座を開催した。そして一一月に結成された結城郡教員組合に加盟して組織強化につとめた。また新憲法発布に際しては直ちにその講演会を開き、新憲法展覧会を開いて民主憲法の学習、地域への啓蒙活動を行うなど、進んだ行動を展開した。
 翌昭和二二年にはいわゆる二・一ストの取り組みが着々と行われ、一月二九日には全教員のスト突入に対応する父兄大会も開かれ、水海道地方は緊迫した。この事態に対し、教員の動きを批判する者もあったが、この父兄大会は教員の要求を基本的に支持した。しかし二・一ストは中止となり、授業は平常どおり行われた。そして結城郡教員組合では二月、三月と総会を開き、スト中止後の新しい活動に取り組み、打撃は少なかった。